黒の女と夜の月 新月


 夜空に月が満ちる時、狼男は目覚める。

 しかし、今宵現れる狼男はそんな生易しい“モノ”では無かった。



「ハッ、ハッ、ハッ…!!」

 月の満ちる夜、人気の無い薄暗い道を黒い制服を着た少年が汗水垂らし

走っていた。その表情は正に死に物狂い。

 人がそのような表情をする時は大体決まっている。

 急用、不測の事態……数を挙げればキリがない。

 だが、この少年の場合は不測どころの話ではなかった。

≪ハシュルルルル……≫

 少年は何度も聞いたその鳴き声に背筋を凍らせる。

 その鳴き声は明らかに人外のものであるが、獣のものでもない。

 深淵の闇から得体の知れない“何か”が唸っている、そんな声。

 その“何か”が後ろから近づいてきている。それもずっと。

「何なんだ…何なんだよ!!」

 少年は放課後、適当に遊んでからの帰宅途中だった。街から外れた

人気のない道を歩いている途中、不意にその“何か”の唸り声を聞き

走ってその場から逃げて今に至る。

 最初は山から降りてきた熊か何かだと思った。しかしそれが間違い

だと気付くのはすぐだった。むしろ熊だった方が幾分マシだっただろう。

 “何か”は常に暗がりにいて、自分を追ってきている。重量感のある

足音を響かせながら、ゆっくりと……

 それはまるで羊を追い詰める狼。

 明らかに知性をもった“何か”は得体が知れず、それも少年に恐怖を

与えるのには十分だった。

 外灯と鈍く光る月だけが今ある光、道標。少年はとにかく走った。

“何か”から逃げる為にただひたすらと。

 だがパニックを起こした人間は判断力が鈍る。ただ逃げる事に専念

していた為に少年は人のいるような場所へ逃げる事を忘れていた。それに

少年が気付いた時にはもう遅かった。近辺でも、特にこの時間帯には

滅多に人のこない公園へと少年はやってきてしまった。そしてそこに

着いた時、少年の体力は限界を迎えた。

「ハァ、ハァ、ハァ……!! く、来るな! 来るなぁぁ!!」

 無人の公園で少年は叫ぶ。公園は電灯の交換をしていないのか

やや点滅する外灯に照らされている為に、普通よりも薄暗かった。

≪ハシュルルル……もう降参か?≫

 ずしんと足音を立て、人間の言葉を発する“それ”はいよいよ少年の

前にその姿を現した。

「ヒッ!!」

 息も絶え絶えだった少年はつい息を止めてしまった。

 それもそうだろう。外灯が照らした巨体は正しく「化け物」と言える程に

異形の存在だったからだ。

 人の形をしているが決して人ではない。まるで月のような色をした体、

膨張した筋肉。…そして、顔の部分にはいくつもの目玉が付いていて

更に人間の顔のようなモノが張り付いていた。裂けた口からは鋭い牙が揃い

涎を垂れ流している。

≪お前はこの町では一番の獲物だからなぁ。前から狙っていたんだ……

もう待ちきれん…早く貴様を……喰わせろぉッ!!≫

「あ、あぁ、あぁぁ………」

 化け物は少年へと歩み寄る。圧倒的な死への恐怖に少年は尻餅をつきただ

体を震わせその巨体を仰ぎ見るだけ。蛇に睨まれた蛙とは正にこの事。

 化け物は丸太のような太い腕を振り上げた。その指の先には鋭い爪が伸び

次の瞬間には自分を真っ二つにするだろう。そう呑気に少年は考えていた。

 ――殺される。確実に。

 涙を、尿を垂れ流し命乞いする事すら忘れた少年に、無慈悲な凶刃が

振り下ろされ――――――

「はいストップ。お楽しみの所悪いけれど」

≪ッ!? 誰だ!?≫

   

 化け物も少年も全く気付かなかった。この公園に自分たち以外の存在が

いる事など微塵も思っていなかった。

 だがその“女”は確実にそこに存在していた。

 外灯に背をもたれているのは黒ずくめの女性だった。

 長く艶やかな流れる黒髪は見る者が異性であろうと同性であろうと

目を惹く事だろう。全身を黒く染めるコートはまるで彼女の為の物と

思わせるほどの正装、子供の背丈より少し上だろう黒く長細い筒を肩に提げ、

モデルのように整った顔と体型をした彼女はテレビや雑誌などでも

そう見る事の出来ない美女だった。

 だがその鋭い瞳は何もかもを射抜くような畏怖を感じさせ、怪しさと

威圧感を際立たせてもいた。そして、外灯の下にいるとはいえその瞳が

何処となく光っているのは気のせいだろうか?

 まるで闇の中から生まれたかのような出で立ちの彼女は口元は柔和、

しかし瞳は全く笑わずに化け物へと近づく。

≪ククッ…今日は良き日だ。まさかこのような御馳走に巡り合うとは…≫

「…ククッ……」

 黒ずくめの女は肩を震わせる。長い髪が顔を隠し、口元だけが見えるが

三日月のように歪ませた彼女の口からはいつしか嘲笑とも言える

押し殺した笑い声が聞こえるようになる。その異様な雰囲気に

少年は勿論の事、化け物ですら一歩引いた。

 化け物は何かを感じ取り後ろ―少年の方へと振り向いた。

 少年はまた自分に襲いかかってくるのかと思ったがそれはすぐに

間違いだと気付いた。

 何故ならば、化け物に張り付いていた人間のような顔がまるで恐ろしい

モノでも見たかのような、恐れ慄いた表情をしていたからだ。

≪あぎゃぁああああ!≫

 だが次の瞬間、化け物の口から何かが突き出た。鈍く煌めく二つの

切っ先。それはよく時代劇などで見る“刀”の切っ先だと少年は

咄嗟に思った。

 一体何が? 一体誰が刀なんかを?

 答えは決まっている。

 化け物が自分の前を覆っていて視界を阻んでいるが、恐らくこれは

あの女性の仕業だろうと少年は何となく分かった。

≪な、何ぃいいやあああああああああっ!!!≫

 化け物の頭が横に裂けた。腕が飛び、胴体が貫かれ、体が縦に

両断される。あっという間の出来事に少年は目を見開いた。

 そして化け物の体から飛び出した血を少年は浴びた。

「うわっ! ぷっ、ぺっ! ……な、何だ…これ!?」

 血を浴びたはずだった。だが、少年の体は黒く染まっていた。

 オイル? 墨? 少年の頭は突然の出来事で更に混乱する。

 化け物の血は黒かった。無味無臭という所も逆に不気味さを

引き立たせる。目を擦り、拭き取るとそこには月を背にしてあの

黒ずくめの女性が立っていた。

 両手には今見た刀が握られ、少年を冷たく見下ろしている。

 だが少年にはそれが一枚の絵画に感じられた。

 美しく、残酷で、荘厳……

 呆気に取られている少年を余所に女は刀を落ちていた細長い黒筒の中へと入れる。

「無事みたいね」

 不意に女が少年に声をかける。先ほども聞いたが、綺麗な声だと

少年は感じていた。だが女性は少年を気にかけているとは程遠い

のを少年は同時に感じていた。

 何故ならばその鋭い瞳はとても助けた者を見るようなものでは

なかったからだ。

「あ、あんた…一体……?」

「ご苦労様。実にいい“餌”だわ。あなた」

「え、餌…?」

 この女性は自分を助けてくれた。…だが、あの化け物を軽く

屠る腕…そして自分を餌と呼び…

 本当にこの女は自分を助けてくれたのか?

 次第に気味が悪くなってきた少年は腰を抜かしていたのも

嘘だったかのように立ち上がり、一歩、二歩と後ろ歩きで女から

引き下がる。そんな少年の様子も女はまるで楽しむかのように

見ている。…その黒く深い闇のような瞳で。

「またよろしくね。ククッ……」

「う、うわ……うわぁあああああああああああ!!!」

 助けてもらった礼など忘れ、少年はその場から逃げ去った。

 それを見送り、黒ずくめの女性は深い闇へと溶け込んでいった……

 

 

            ◆

 

 

「……い、おい仲野なかの

「ん……」

 誰かが俺を呼び、体を揺さぶっている。体を起こし、目を擦ると

そこは学校の教室。生徒達が行き交う見慣れた光景が広がる。

 そしてぼやけた視界に立つのは俺と同じく平凡な顔立ちの男。

 俺と決定的に違う所は少し軽薄そうな顔をしているという事か。

「もう授業終わったぞ? おーい、まだ寝ぼけてるのか?」

 俺を起こしてくれた男子は、小馬鹿にした感じで俺の目の前を

手で振る。そのあまりにもの日常に俺は完全に目が覚めた。

曽我そが ……てめぇふざけやがって」

 その手をどけ、俺は凝り固まった体を伸ばす。ヤバい…

現国の授業丸々すっぽかしちまった……まぁ、あの先公の授業

かったるくて聞いちゃいられないしな。だから眠った訳だし…

 それにしても、悪い夢だった……

 いや、アレは夢でも何でもない。流石にアレが夢だと思うほど

頭は悪くないつもりだ。

 昨日の帰り道、俺はあの化け物に襲われた……あの出来事は

本当の事らしい。幸い怪我は一切無かったがこうしてたかが

一時間程度眠っただけの浅い眠りで鮮明な夢を見てしまう位に

衝撃的だったと言っていい。

 正直、今でも体に刻み込まれた死の恐怖は拭えない…未だに

体が震える……今見た夢で制服の下はびっしょりと汗まみれ

だというのに、体中悪寒が消えない。

「なんか今日ずっと調子悪そうじゃね? どうしたよ?」

 軽い感じで聞いてくるダチに俺は苛立ち「何でもねーよ」と

冷たく突き返す。ダチ―曽我は俺が体調が悪くて機嫌が悪い

とでも思ったのか深くは追求せず、肩を竦め俺に別れを告げ

さっさと教室から出ていった。

 …そうか、放課後だ。



 俺は仲野なかの 信彦のぶひこ

 自分で言うのも何だが平凡な高校生だ。何か取り柄がある訳でもなく

部活もせずただ自堕落に今を生きる少年A。かといって女がいる訳でも

ないし、将来やりたい事がある訳でもない、ごくごく普通の高校生。

 …それなのに、俺の日常は昨日を境に一変した。急に、何か

段階を踏んだとかそういうのではなく、突然に。

 漫画やアニメ、映画でしか見た事のないような化け物が俺に襲い

かかってきた。CGではない本物の化け物。

 そしてその化け物をあっさりと殺した黒ずくめの女。

 誰に話しても何かの映画か何かと思われるだけの話。だが俺に

とっては間違いなく現実の話。誰にも理解できない話…

 こうして学校の廊下を歩いていると昨日の事は正に夢だと

思ってしまう。談笑しながら歩く女子達、部活へと急ぐ男子達、

そのどれもがいつもの日常。

 …こいつ等は知らない。何も分かっちゃいない。

 そんな日常の影に、あんな化け物がひしめいているのに。

 それを知ったらこいつ等も、あんな楽しげに笑う事なんて

出来ないだろう……

 …俺だって夢だって思いたい。幻、狐か狸にでも化かされた

のだと思いたい。昨日親に見つからず、風呂場で一生懸命制服を

洗った事も何かの錯覚なのだと信じたい。

 だけど、それはただの甘い考え。

「おい、誰だよあの美人!」

「綺麗……でも、ちょっと怖いかも」

 音を立てて崩れていく平凡な日常。無慈悲なまでの現実。

 校門の前で、誰かを待つように立っている黒ずくめの女は

俺にとっての死神か。

「冗談じゃない…!」

 他の生徒達は何やら騒いでいるが、そんなのは関係ない。あの

冷たい闇の瞳に捉えられる前に俺は学校の裏に回る。…いや、

もう捉えられていたのだろう。

 その証拠に、明らかに反対方向へと走ったはずなのに俺の

行く先にあの女が当たり前のように立っていたからだ。

 何故、どうして? そんな疑問はともかくその女がそこに

いる事だけが真実だった。

 …また人気のない裏道。俺はどうも焦った時に人のいない

場所へと行ってしまうようだ…

「困った癖ね」

 俺の考えてる事を見透かしているように女は言う。また

口元は笑い、しかし視線の鋭い表情で。

 逃げろ…

 どうしてか分からない。だけど俺の本能が告げている気が

する。心臓の動悸が早くなる。まるで警鐘のように。

 この女は不吉な予感がする。昨日は俺を結果的に助けては

くれた…だけど、どうしてか俺を“助けた”訳ではない…

矛盾しているが俺はそう思えてならなかった。

「そう怖がらなくていいわ。私はあなたに危害を加える

つもりは毛頭ないわ」

 また俺の心を見透かして…

「信じられないね」

 涸れた声で俺は呟く。…緊張で喉が渇いていたようだ。

 恩を仇で返す真似をしようと、俺は自分が正しいのだと

直感する。女の次の言葉はそれを確信に変えた。

「そう思ってもらって構わないわ。私だってあなたの事は

“撒き餌”程度にしか思っていないから」

「なっ…!?」

 撒き餌だって…!? こいつ…人を何だと…!

 そういえば昨日も“餌”と言った。

「何なんだよ! お前も、あの化け物も!!」

「知りたくない? 自分が今どういう状況に置かれている

のかを。そして、自分が何者なのかを」

 いや、待て…待て待て待て。

 冷静になれ。こんな口車に乗る必要なんてない。

 こいつは信用できない。あの化け物の事も知っている

ようだが、こんな人を餌と言うような奴と話す道理はない!

「知りたくないね! 俺に関わるな! 二度と!!」

「そう、残念ね」

 全く表情も変えず、残念そうな素振りさえ見せない。そんな

仕草は腹立たしさ以外の何物でもなかった。

「ならあなたの言う通りにするわ。でも……」

 女と俺とは4,5mほど離れていた。だが女は一瞬で俺の

隣へと移動した。まるでコマ送りをしたかのように一瞬で。

「本当にそれでいいのね?」

 耳元で囁かれる。本来なら色めき立つものだが、この女の

囁きは俺の背筋を凍らせるだけだった。虫が体中を這いずり

回るかのような気持ち悪さが駆け巡った。

 「本当にそれでいいのね?」。その言葉には色々な意味が

含まれている事を悟った。

 もし俺が化け物に襲われたとしても、助けない…そんな

意味にもとれた。いや、そういう意味なのだろう。

 …だが、俺はあの化け物よりもこの女の方がよっぽど

不気味な存在なのだと思った。だから――

「あぁ、それでいい! とにかく俺に近づくな!!」

 という言葉が出た。

「ククッ………」

 女は笑った。


 初めて見た女の笑みは、とてもじゃないが笑みとは

程遠い邪悪なものだった。



 女はあっさりと姿を消した。

 いや、これでいいんだ。非日常にいる者に関わればまた

昨日のような事になる。そうだ、俺は間違っていない。

 携帯を手に取る。

『おう仲野か? どうした?』

 すぐに曽我へと繋がった。どうもカラオケ店にいるらしい。

 …俺は払拭したかったのかもしれない。あの女と今

遭った事を。その事実を。


 今日は夜道で何かに遭遇する事はなかった。

 人ごみのある場所を選んで帰ったのがやはり良かった。

思い返せば、あの化け物は俺を人気のない所へ誘導するよう

追い詰めていたようだった。それは裏を返せば人には見られ

たくはないからだ。どういう理由かは知らないし知りたくも

ないが。

 この方法ならあの化け物に遭う事はない。


 …いや、そうじゃないだろ信彦。

 お前が安心して帰れるのは、心のどこかであの女が

また助けてくれるかもしれないと思っているからだろう?


 ―――違う!

 あんな啖呵を切ったんだ。そんな事思うのはやめろ!

 そうだ、自分の身は自分で守る。当然の事だ。

 俺は十分、自分の身を守れるはずだ。



 そんな風に俺は情けない自己暗示をかけながら家の前へ

着いた。なるべく後ろを振り向かないように、玄関へと入る。


 …振り向けば、暗闇からあの化け物が湧いて出てきそうな

予感がしたから……

 ありもしない視線に怯えながら、俺は「ただいま」と

いう安堵の呪文を唱えながら家の中へ入るのだった…



《続く》


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