黒の女と夜の月 三日月


 あれから数日後。

 思った通り、なるべく一人になるのを避けて帰るようにしたら

まるであの月の夜が嘘だったかのように、あの化け物が現れたり

する事は無かった。

 これから気をつけさえすれば俺の身に危険が及ぶ事はない。

 やはりあの夜は夢か何かだったのだ――と思える程に

平穏な日々が続いている。

 だが、あの夜の出来事は紛れも無く事実で……

「そういえば何だったんだろうな?」

 眠気を誘う陽気な昼休み。何をする訳でもなく教室にいると

同じく俺と一緒にいた曽我が話を切り出した。「何が」と

聞き返せば曽我はあろう事か、あの黒ずくめの女の話を

し出したのだ。

「滅茶苦茶美人だったよなー。誰か待ってるみたいだったけど

誰かの姉…知人、もしくは恋人?」

 色めき立つ曽我だがそれは無理もない話だ。

 あの女の事は気に食わないが、確かに見た目だけなら男でも

女でも惹かれる事は間違いないだろう。…俺だって、あの一件が

無ければ曽我と同じ気持ちになれたかもしれない。

「やれやれ、盛りのついた猿かアンタは」

 女について熱く語り出した曽我にキツイ一言をかけたのは

クラスにいる女子。

「んだと林田はやしだぁ!」

 曽我が女子の名前を叫ぶ。茶色のボブカットに小動物のような

大きい瞳が特徴の女だ。…仲間内で贔屓目に見ている訳ではないが

クラス、いや、学校内でもいい線いってると思う。

 それが俺の、林田という女への印象である。

「確かにここ数日噂になってるよね、その人。私も見たけど

美人だったなー」

「お前よりずっとな」

「なんだとー!」

 曽我と林田があの女の容姿について熱く語っているのを見て

俺は少し腹立たしくなってきた。…正直あの女の事は思い出し

たくはない…こいつ等はどっちもいい奴だが、今の話題は

最低もいいところだった。

「美人でも、あんな黒ずくめの女なんてロクなもんじゃねーよ」

「お? 何だよ仲野。あんな美人ならどんな悪女でもお近づきに

なりたいだろうが」

 鼻息荒くして迫る曽我を俺は「くだらない」と一蹴する。

 どんなに美女だろうと棘はあるものだ。…あの女みたいに。

 それがどんな毒を持っているかも考えない馬鹿は甘い蜜を

吸う前に情けない死を迎えるだけだ。

「なんか仲野、不機嫌?」

 林田の大きな瞳が俺を見つめる。…あの冷たく射抜くような

瞳に比べれば直視しても問題ない。すると林田は少し照れた

感じで目を逸らした。…しまった。ついつい目を合わせた。

「仲野ってあんま女に興味ないからなぁ」

「うわ、もしかしてそっちの気があるの? キャー!」

「……」

 馬鹿が二人になるとウザったくてどうしようもない。だが

その馬鹿さ加減があの非現実的な夜を忘れさせる。

 そうだ、これが日常なんだ。


「そういえば知ってる? 月の夜に出る化け物の噂」


 突然、日常が非日常へと変化する。

 何故? どうして? 何でその話が林田の口から出てくる!?

「あ? 何だそりゃ?」

「最近噂になってるの。月が出てる夜、化け物が現れるって。

ま、都市伝説みたいなものだけどね」

 驚愕に震える俺を余所に二人は話を進める。

「月の出てる夜って…狼男とか、吸血鬼か?」

「そんな所じゃない? あくまで噂話だから――」


 何だよこれ……

 どうして、このタイミングで……

 折角…折角日常に戻れそうな時だっていうのに!!


「どういう事なんだよ!!」

「わっ!? ちょ、仲野!?」

 俺は林田の肩を思いっきり掴んで大声で叫ぶ。

「本当なのかそれは!? おい、林田!」

「仲野…ちょっ…痛い!」

「ッ! わ、悪い…」

 俺は一瞬我を忘れ、自分でも信じられない位に林田の肩を

強く掴んでいたようだ。その場で自身を抱きしめ座り込む

林田を見て、馬鹿な事をしたと後悔する。

 心臓の動悸が激しい。周囲の目も痛い…

「どうしたんだよ仲野、お前変だぞ!? 何だよ今の!?」

 林田へ駆け寄るクラスの女子達。怒る曽我は俺の襟を掴んで

詰め寄る。

 何をやってるんだ俺は……林田の話とアレは関係ないはずだ。

ただの噂話と言っているのに…俺は…!

「……帰るわ、俺」

 曽我の手を解き、俺は鞄を持ってすぐに教室から立ち去る。

後ろから曽我の怒鳴り声が聞こえるが、それを振り切るように

俺は足早に教室から遠ざかるのだった。

 …一瞬だったが、林田は俺を心配そうな表情で見ていた。

 それがまた、俺の心を苦しめた……



 教師に何も言わず、サボった俺は迷う事なく家へ直行した。

 何もする事なく、ベッドの上で天井を見続けるだけ。馬鹿な

事をしたと後悔だけが俺を苛む。

 時間はあっという間に過ぎていき、夜になる。外を見れば

憎たらしいほどに月が輝いている。…それが俺を苛立たせた。

「くそっ、くそっ、くそっ…!!」

 何度も何度も枕を叩きつける。だがそんな事では苛立ちは

収まらない。部屋に隠していた煙草を取り出し、火をつけ

肺を煙で満たすがそれもあまり意味をなさなかった。何もかも

苛立たしい。

 それもこれも、全部…全部!!

「奴らのせいだ…」

 あの化け物、そして黒ずくめの女。あいつ等が現れてから俺の

生活は滅茶苦茶だ。

 …いつまで俺は奴らの影に怯えて過ごさなくてはならないんだ…

「ごほっ、ごほっ…」

 こんな気持ちで煙草を吸っても全然美味くない。灰皿に押し付け

それを投げ捨て頭を掻き毟る。


 夜空にはそんな俺を嘲笑うかのように月が輝いていた。



 どうすれば…どうすれば今の生活を変えられる? 学校は

安全なはずなのに、まだ昼間なのに、不安は取り除かれない。

 いつになれば……終わる? この不安はいつになれば…

 それとも……

「よぉ仲野! 何だよ機嫌悪いのか? すっげぇ顔色悪いぞ?」

 俺が屋上へ続く階段の途中で座り、悩みこんでいた所に

如何にも“不良”という陳腐な言葉が当てはまる男が俺の前に現れた。

 耳にはいくつものピアスがジャラジャラと音を立て、金に染め

オールバックにした髪、喧嘩慣れしてそうな図体とこれだけの

パーツが揃っていれば、誰もが不良と指差すだろう。

「…曽我と林田の言う通り、だな。風邪でもひいたか?」

 そして不良の後ろから階段を上がってくるのはこれまた

如何にも“知的”という陳腐な言葉が当てはまる眼鏡をかけた

男だった。校内で女子に人気があるというのも在り来たりだ。

 そんな陳腐、在り来たりという言葉がお似合いの二人は

どうして、俺のダチだった。

植山うえやま吾妻あがつま…」

 不良が植山、知的な方は吾妻。そして曽我と林田、俺と。この

5人がよくつるむグループだった。だが仲良しこよしのお仲間

ではない。特に何かドラマのような出来事があった訳でもなく

いつの間にか形成されたグループだった。

「はぁ、風邪?」

「その程度も分からんか。これだから…」

「あぁ!? んだと吾妻ぁ!」

 と、この二人は特に仲が悪い。犬猿の仲とはこの事か。だが

不思議な事にこの二人は切れない。何故ならば…

「お? やるかオラ!」

「またやられたいのか…いつかみたいに」

 植山は俺達の中では新参者。以前から気に入らなかった吾妻を

シメようとした植山は理系のはずなのに空手の有段者という

吾妻に返り討ちにされた、というこれもまた在り来たりな過去が

あり、それからというものの俺達に付きまとうようになった――

という訳だ。

 この二人のいつもの光景を見ていたら、少し気が紛れた。

「曽我と林田」

 唐突に吾妻はその名前を口にした。紛れた気が、また違う

問題でぶり返した。

「珍しいな、お前達が一緒にいないのは」

「ん…」

 別に叱られた訳でもないが俺は顔を背ける。

 今日はまだ二人と話してない。…特に俺が避けているのだ。

 曽我は俺と同じく話そうともしない。林田は何か言いたげに

俺を見ていた。そういう事が昼休みになるまで続いた…

「んだよ。ただ思いっきり肩掴んだってだけなんだろう? んなの

スキンシップっていうの? それと同じだろうが」

「不良の日常茶飯事を俺達一般人に当てはめるな、馬鹿が」

「あぁ!?」

 またすぐに喧嘩を始めようとする二人を止める。こいつ等は

すぐに始めようとするから大変だ…

「聞いたのか?」

「あぁ、二人からな」

 やっぱりか…。まぁ、昼休みに俺があの二人と一緒でない事は

あまり無い事だからな。

「だが、植山の言葉を肯定するのは気が引けるが仲違いになる

ほどの事ではないだろう。逃げたのが拙かったな」

 あぁ、それは俺も思ったよ。何であそこ逃げ帰ってしまった

のか……自分が情けない。そして、今日の朝にでも昨日の詫びを

入れずにいた自分も……

 “奴ら”に転嫁しようと思ったが、これは俺の失態だ。

「そうだよな……」

 俺は立ち上がり、階段を下って二人に背を向ける。

「一発殴られてこい。それでチャラだぜ!」

「だからお前達のやり方を俺達一般人に当てはめるな」

「あぁ!?」

 変な背中の押され方だが、俺は二人が殴り合う…というか

一方的に植山が殴られる音を聞きながら教室へと向かうのだった。



「それにしても良く分からない微妙な間だったよね」

「ん、あぁ……」

 放課後、俺は林田に引っ張られて街へと来ていた。

「何であれ位で逃げるかなぁ」

「それはアレだ…その…何ていうか……」

 前を歩く林田は振り向かずに呟いた。その表情は恐らく

笑っているだろうと容易に想像出来た。

「でもさ、仲野マジな顔してたから…私達も私達でどうして

いいか分からなかったのが事実かな」

 …やはり俺は相当拙い顔をしていたらしい。

「…悪かった」

「それはさっきも、散々聞いた」

 あの後、俺は変な空気にしてしまった事を二人に詫びた。

 …恥ずかしい言い方だが、俺達の“絆”はあれ位で

壊れるほど脆いものでもなかったという訳だ。…壊そうとした

俺が言うのはおかしいが。

 だからこそ今こうして話していられる。…曽我は

あまりそこまで器用になれないと言って誘いを断った。

「大丈夫だよ。明日になればいつも通りになるって」

 曽我は軽薄そうに見えて、俺達の中では一番の仲間想いの

いい奴だ。だからこその怒りであり、あんな態度を取る。

「もう二度と御免だ。こんな事…」

「そうだね。私も嫌だな」

 振り向いた林田は怒っているとも悲しいとも取れる

複雑な表情をしていた。

 陽も暮れ始め、街は朱色に染まり始めていた。

 陽が暮れているとはいえ、まだ夜ではない。だが

この時間帯は俺を焦らせる。陽が沈めば、奴らの時間…

「仲野?」

 立ち止まった俺を見て林田は傍に寄ってくる。心配

そうな表情で。

「大丈夫…? やっぱり元気ないよ。無理してない?」

 馬鹿の植山ですら分かったんだ。林田が分からない

はずはないか…

「ん…」

 心配はかけたくないが、どうしてもこの時間帯は駄目だ。

 死の恐怖というものはそう拭えるものではないと

この平和ボケした国で知るのは稀有な事だろう。

「…やっぱり、連れまわしたのは良くなかったね…

失敗だった」

 林田は俺があの化け物と出会った夜の次の日から俺の

変調に気付いていたらしい。そして昨日の件も含め

俺の気を紛らわせたい為に俺を連れまわしたのだ。

 そんな林田の気遣いを受け、俺は少なからず化け物への

恐怖を忘れようと努力した。

「林田、俺……」

 だが、忘れられるものではない。

 たかだか数日で“アレ”を忘れられる訳がない。俺の

脳裏に焼きついて離れない。

 そして、林田の気遣いより化け物への恐怖の方が

勝る事が許せなかった。情けなかった。

「ねぇ、仲野…」

 不意に林田は俺の手を握ってくる。その手が思った

異常に柔らかいのと、意外と冷たかったのと、震えて

いるのを感付かれるのが嫌で俺はすぐに手を払おうと

したが…

「事情は知らないけど…」

 林田の柔らかな表情が、その気遣う眼差しがそれを

躊躇わせた。瞬間、払うなどとんでもないと気付くが―

「私…仲野の事慰めてあげられるよ……」

「え…?」

 その林田の言葉はそんな考えを無くすには十分だった。

 心臓が跳ね上がるのを感じた。動機が早まるのも。

 林田は一体何を言っている?

 “慰める”って何だ?

「林田…」

 意識せず、喉が鳴った。

 依然、頭の中はぐるぐると回っている。ハンマーで

殴られたとしても、ここまで混乱はしないだろう。

 訳が分からない。急にも程がある。

 俺も林田もガキじゃないし、ガキは慰めるなどという

言葉は使わない。

 その言葉の意味がどういう事か…分からないほど俺は

馬鹿じゃない。そして、恐らく林田が冗談で言っていると

思えない。…俺はそれほど鈍感でもない。

 繋がれた手が汗ばんでくる。まともに林田の顔が

見られない。

「な、なんで…」

 緊張で喉が枯れている。

「嫌だから…ずっと仲野がそんな顔してるのは…」

「だからって…」

 “おかしい?”と首を傾げる林田。

 あぁ、おかしいだろう。林田とは仲間だが行為を

持ちつ持たれつの関係ではない。ただ一緒に他愛の

ない日々を送る者の一人だ。

「それは…仲野の中で、でしょ?」

 その言葉の意味するところはつまり……

「私の気持ち…知りたい…?」

 彼女はここまで艶のある女だったろうか? その瞳には

淫靡なものすら感じる。

 また喉が鳴る。心臓の音が止まらない。

 急過ぎる出来事に頭がついていかない。

 だからだろうか?

 俺は彼女の質問に――――



「私は…ずっとアンタを見ていた…」

 街の裏側、簡単に言えば如何わしい店が立ち並ぶ場所。

 そこにある“休憩所”に俺達はいた。…抱き合っていた。

「でも今まで言いだせなかった…。だって、私は…こんな

女だから……」

 “こんな”……それがどういう意味か。少なからず

予想は出来るが、迂闊にも口に出そうとして――塞がれた。

「んっ……」

 俺にとっては初めての口付け。林田の柔らかく熱い唇は

俺の脳を惚けさせるには十分だった。

 よくキスは何味云々あるが、人間は食べ物じゃない。だが

どういう味かと言われれば…その女の味と言うしかない。

 とにかく、どんな美味な食べ物よりも夢中になれると

いう事だ。事実、俺は何も考えられずそのままキスしたまま

林田をベッドに押し倒し唇を貪った。息をする事など忘れ

ひたすら。

「あ…ん……んん……ちゅ…」

 乱暴なやり方だったが、しかし林田もまるで俺を吸い

尽くすかのようにしてくる。

 やがてどちらともなく舌を絡ませ合う。何の味もしない

はずの唾液は今まで飲んだどんな飲料水よりもいい味が

した。…それは単に、相手が林田だからか。それとも

興奮した脳が味覚を変えているのか。

「んぅ…ちゅ…」

 でも、そんな事はどうでもいい。

 熱い…頭も、林田の舌も。

 それはキスというよりも舌の絡ませ合い。現に既に唇を

合わせてはおらず互いに舌を出し合い、れろれろと絡める。

互いに目を開け、合わせる。林田の目は見た事もないような

猥らなものとなっていた。それは男であれば…いや、俺の

ように未経験の男なら誰であろうと虜にしてしまう魔性の

瞳。…女とは、皆こうなのだろうか……そして、俺は今どんな

表情をしているのか…。顔を真っ赤にして、緊張で必死に

なっている中坊みたいなのだろうか?

「はぁ……」

 流石に苦しくなり、一旦唇を、舌を離した。だがすぐに

名残り惜しくなりまた濃厚なキスを繰り返す。

 凄い…凄過ぎる……

 まだキスだけだぞ? こんなのは前戯でもない。入口だ。

 それなのに頭は真っ白だ。

 そんな俺の気持ちを知ってか、一旦林田はキスを中止した。

俺としてもこれ以上し続けると危ないと思った。

 互いに口から交換し合った唾液がだらしなく垂れている。

初めての事に、俺は情けなく肩から息をする。そんな俺を見て

林田は愛おしいものを見るように笑った。

「林田ぁ!」

 それが理性の限界。


 そこから俺の記憶は曖昧となり……




「ハァ…ハァ……ハァ………」

 気付けば、二人とも汗と粘つく白濁液にまみれながら

ベッドの上に突っ伏していた。

 体中がだるい……。だが、別に嫌な疲れではない。

 …馬鹿みたいに腰振りまくってる恋人達やセフレ、援交

してる奴らや、とにかくセックスしまくる奴らの気持ちが

嫌と言うほど分かる。みんな、これを何度も何度も味わいたい

からこそセックスに没頭するんじゃないか?

 そこに深い意味なんてない。ただ自分たちの欲望を

ぶつける、ただそれだけ。

 愛情? そんなものセックスするのに必要あるのか?

「仲野……」

 見つめ合いながら、伸ばされた手に指を絡める。

 俺達の間に愛はない。林田も、別に俺に好意があると

いう訳ではないだろう。そんな甘い何かならこんないきなり

セックスなんてしない。

「……林田…シャワー浴びよう…」

「…エッチ」



 シャワーを浴びた後、俺達は外に出た。まだ体が火照って

いるのを感じる。

「…もしかして仲野って絶倫?」

 馬鹿な事言う林田を小突く。…確かにシャワー室で何回も

林田を求めてしまったのは我ながら若いと思ったが。

 外は既に真っ暗だが、月が僅かながら出ていた。だという

のに、今はあまり気にならなかった。…そう、恐怖を。

 それはただ未だに林田とのセックスで昂奮しているから

なのだろうが、俺にとってそれは良い事なのか、悪い事

なのか?

 …普通に考えれば後者だろう。警戒心が無いのは今の

俺にとっては良くない。

 でも、ずっとこのままという訳ではない。今はあの不安を

少しでも忘れさせてくれた林田に感謝する所だ。

 余韻に浸るように俺達は手を絡め、歩く。行先は決めず

ただふらふらと。

 そして、行き着く先が街でも有名なデートスポットの

公園。…あれだけ濃厚な時間を過ごしておいて、今更ここは

ないんじゃないか? と苦笑してしまった。順序が逆だと。

 薄暗いこの場所は恋人たちが秘め事を行うのにとても

適していると言える。流石にセックスまでしている奴らは

いないようだが…いや、もしかしたらいるかもしれない。

 林田は俺の手を引き、進んでいく。やがて恐らく“何を

しても大丈夫そうな場所”までくると、そこにあったベンチ

へと俺達は腰かけた。すぐに林田は俺にすり寄ってくる。

 シャワーを浴びたはずなのに、林田からは匂いがする。

 男を誘い、その蜜壺へと誘う甘い匂いが…

「その…ありがとな、林田。林田のおかげで俺……」

 これ以上無言でいてはまた始めてしまうだろうから俺は

先に感謝の意を伝える。

 だがそれ以上の言葉を告げられない。どうして俺が

不安がっているのかを。…当然、あの夜の事を言うつもり

はないし、言った所で信じられないし、言えば林田を

あの狂った夜に引きずり込んでしまうような気が

したから。

 そして、嘘を言った所で見抜かれるだろうと思い何も

言えなくなる。そんな俺の気持ちを悟ってか、林田は口を

開き――

「…私さ、好きだった人がいたんだ」

 唐突に、そんな話を切り出した。俺から少し体を離して。

「初恋でさ。その人とはセックスするまでは良かった

んだけど……」

 俯いてどんな顔をしているのかは見れない。が、林田が

今どんな気持ちで、どんな表情なのかは彼女の発する雰囲気

そして怖い位に淡々と話す様から容易に想像出来た。

「やったらやったで終わり。散々身体を弄ばれた上で…ね。

ハハッ…酷い話だよね」

 よくある…と言えば、よくある話なのだろう。目星を

付け、恋愛という甘い蜜で誘い、そして思う存分

肉を味わったらそれでお終い。…典型的なクズ野郎の

やり方だ。

 …だが、俺はそれを口に出来なかった。利用した点では

俺だって同類だ。何も変わっちゃいない。…例え向こうから

誘ってきたとはいえ。

「でも私は忘れられなかった、肉欲の味を…セックスが

与えてくれる快感を、絶頂を。…それから私は何人もの男と

セフレになった。乱交パーティーとかさ、そんなのも

やった事があるよ」

 俯いたまま、肩を震わせて…

「はは……ははは………最低…だよね…。うっ…うぅっ…」

 涙混じりの自嘲は痛々しかった。

 林田がどんな生活を送っていたのかは今の話でおおよその

見当はつく。正直唖然とした。だけど汚らわしいとは別に

思わなかった。

 思うに、林田は紛らわせたかったのだろう。騙された苦しみを。

 それが、その解消法が自分を苦しめる原因となったセックス

だったのは皮肉と言えるが。

 経験してみて分かったが、あれは何かを紛らわせるには

てっとり早い方法だ。異性がいればすぐ出来る。忘れるのは

一時だが…

 俺もその味を知ってしまったから。もしかしたらこれから

俺も林田みたいに……

 そこで俺は頭を振った。馬鹿か俺は。ダチを道具みたいに…

 だが、馬鹿な俺は「俺もその中の一人か」と聞いてしまった。

「…そうだって言ったら?」

「……」

 思わず閉口してしまう。返す言葉が浮かばなかった。いや、何を

言っても林田には通じないだろう。

 だけど、俺はそれでも良かった。少しでもあの化け物たちを忘れ

させてくれたのだから。別に林田が俺を利用したとしても気に

してはいない。むしろ感謝すらしたくて……

「仲野…!」

「林――んっ…」

 突然林田は俺に抱きつき唇に吸いついてくる。舌も入れてきて

濃厚なキスをしてくる。俺はあまりにも突然の事に成すがままと

なってしまう。

「んっ…ハァッ! 林田…どうした…!?」

 キスされているとはいえ、流石にこれはおかしい。俺は抱き

ついてくる林田の体を無理やり引き剥がす。

 そこで気付いた。林田が明らかに欲情した表情で俺を見つめて

きている。…もしやこれが、林田を苦しめてきたものだというのか?

「私…満たされなかった……」

 俺に聞き返す暇も与えず林田は続ける。

「何回も何回も、何回セックスしても全然足りない、足りないの!

どいつもこいつも“美味しく”ないの!」

「はや……しだ…?」

 俺の腰の上に跨いで座っている林田は上を…月を見上げ

高らかに叫んだ。

「私もそうだけどあいつ等もそう! 結局誰も彼も身体だけ!!

そんな奴らを“食べても”全然ダメ! 全くダメなのダメダメなのッ!」

 狂ったように林田は叫ぶ。良く分からない事を楽しそうに。

 俺は呆然と見ているだけだった。自嘲し泣いて、欲情しては

笑い……激しい感情の変化についていけない。

 これは…目の前にいるのは本当に林田か?

 そして俺は更にふざけた事を脳裏に浮かべた。


 どうして林田があの化け物と被って見えるのだろうか?


「ずっと探してた。私の求める人……そして見つけた……」

 そして、月を見上げていた林田は俺を見下ろす。その表情は

あり得ない程に“無”だった。何も無い。空っぽの…

 俺は心臓を掴まれた。止まったと思った。

 その何もない顔、そして瞳に見つめられ俺の時間は確かに

停止したのだ。

 それは間違いなく、あの化け物に殺されそうになった時

感じたものと同じで…

「セックスも出来た…仲野は他の馬鹿共とは違う……私を

大切に、でも激しく抱いてくれた」

 何かが俺の頬に当たる。それは林田の口から流れた涎…

「“あいつ”はダメだって言うけど……もうダメ。我慢出来ない」

 そして林田の顔は酷い位に歪んだものへと変貌した。三日月の

ように口が曲がり、涎は止めどなく俺に降り注ぐ。

「勿体ないけど…勿体ないけど!!!」

「あ……」

 林田の瞳が淡い光を発した。それは正に俺から見て林田が背に

している上弦の月の色と同じで……

≪仲野ぉおおおおおおおお!!!≫

 あの化け物と同じ、振動がかった声で俺の名を呼ぶ“何か”。

「ッ!?」

 突如、林田の口が真横に裂けた。耳にまで達し、口が大きく

開いた。その姿はまるでアンコウのようで――――

   

≪食べさせてぇええええええええええええええ!!!≫

「うわああああああああああああああああああ!!!!」


 その大きな口は俺の頭を―――――――



《続く》


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