黒の女と夜の月 上弦の月


≪食べさせてぇええええええええええええええ!!!≫

「うわああああああああああああああああああ!!!!」

 まるでアンコウのように変貌した大きな顔、そして口を広げた林田は

絶叫する俺の頭を丸飲み―――――

「盛り上がってる所悪いのだけれど」

≪ッ!?≫

 寸前、何処からともなく声が聞こえる。俺の頭を覆っていた林田の口は

離れ、闇の中にいる得体の知れない“何か”を見据える。

 俺も同じ場所を見るが、暗くて何も見えない。しかし…

≪お前……あの時校門にいた…!≫

 俺に跨る林田“だった”化け物は人間の声とは思えない振動

がかった声でその闇に話しかける。

 …ちょっと待て? 今、こいつは何て言った?

 あの時校門にいた……

 この状況にその言葉、結びつくのはたった一つ。

「あ…あんた……」

 緊張でかすれた声を出した俺は闇の中から這い出た“女”を

ようやくこの目で捉えた。闇よりも更に暗い印象を与える黒ずくめ。

 黒の長髪、黒く怜悧な瞳、黒いコート、担いだ黒い筒……全てを黒で

染めた姿の女が俺達を見つめていた。さもくだらない三文芝居でも

見るかのように…

≪貴様ぁ……邪魔をするか!≫

 激昂する林田。その怒号は常人であればたちまち気を失うような

迫力を内包していた。しかし女は風を受け流すかのように…笑った。

「それは彼に聞いて頂戴」

「な……」

 そして当然のように肩をすくめ聞き返した。林田も俺と同じように

化け物の姿ながら唖然としていた。

「だから、彼に聞いて。彼は二度と自分に関わるなと私に言ったのよ。

なので、私はそれまで何もしない。邪魔をする気もない。ただ…」

 唖然とする俺達を余所に女は喋り続ける。そして――

「お前を殺せればそれでいいもの……彼には悪いけど」

 楽しそうに女は言った。

≪な…何なんだお前……!?≫

 顔がアンコウの化け物となり表情の変化も分からなくなった林田だが

この時は明らかに困惑している事が手に取るように分かった。

 それは俺も同じだった。ただ、その呆れる位人の命を何とも思って

いない言葉だけが理由ではない。

 目だ……

   

 この女はまるで矛盾した表情をしている。

 口元は明らかに笑みを浮かべているのに、その瞳は一切笑っていなかった。

「お前は…!!」

「人の命を何だと思ってるー、って感じかしら?」

 その明らかに異質な笑みを浮かべながら女は俺の言葉を奪う。そして肩を

すくめ俺達を指さす。

「それで、どうするの? あなたがその化け物をどう思っているかは知らない

けれど、その化け物はあなたを丸かじりしたくて堪らないみたいだけど?」

「ッ……!!」

 開いた口は、しかし何も言葉を発しなかった。反論しようにもこの女の

言っている事は紛れも無く事実。

 今でも信じられないし、認めたくはないが…林田はあの以前俺を襲った

化け物と同じだった。でも訳が分からない。どうして林田が化け物に?

 そして女は俺が助けてくれと言うのを待っている。…何て性格の悪い女だ。

 およそ人間の思考を持ち合わせてはいないのだろう。例え俺が目の前で

喰われようと眉の一つも動かさないに違いない。

 こんな女に助けを求めるのか? だが、俺が何も言わなければ俺は

このまま林田に喰われるのだろう。その大きな口で俺の頭をぐちゃぐちゃに

噛み砕くのだろう。

「は、林田……俺を…喰うのか…?」

 自分でも驚く程震えた声で俺に跨っている林田に問う。

 あのお世辞抜きに可愛らしく、しかしベッドの上では艶のある

林田の顔は見る影もない。

 化け物……生理的嫌悪を催す深海魚の顔をした人外。そんな

化け物が俺に跨っている。

 ―――今更、俺は体中が震えている事に気付いた。

 そんな俺の様子を見ての反応なのか、何も喋らない林田。

 林田があの化け物と同じ…それが俺にはショックだった。いや、俺で

なくとも誰だってこんなのは信じたくないし、驚愕に値する出来事だ。

 それに、林田はさっき俺を喰おうとしていた。

 今までずっとダチとしてつるんでいた林田が俺を喰おうとした…

 その事実が恐怖よりも悲しさで俺の中を満たす。

≪仲野……≫

 林田は俯く。体が震え、何かを言おうとしている。



 ……俺は、林田が何を言おうとしているのか予想できた。

 予想…したくなかった………



≪ごめんねぇえええええええええ仲野ぉおおおおおおおおおおお!!

やっぱり食べたいのぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!≫

「ッ……!!」

 血走った目で大きな口を開け叫ぶ林田。

 その瞬間、俺の“中”の林田が“終わった”。

 そう思うのも嫌だし、こんな現実にうんざりした。


 …そして、女に目配せする俺自身が一番うんざりした……


「泣かせる話ね」

 俺の頭が丸飲みされ、噛み砕かれる前に凄まじい速さで俺達に

迫った女が担いでいた黒い筒で林田を殴り飛ばした。骨が砕ける

鈍い音を上げながら林田は吹き飛ぶ。

≪グギギッ……お前ぇ!! 邪魔はしないって言っただろう!!≫

 殴られた頭が陥没し、片目が潰れ黒い血を流す林田。その様は

化け物という以外言葉の浮かび上がらない光景だった。

「ま、そうなんだけど…。どうやら彼、化け物とはお友達になれ

ないらしいわよ? ククッ…!」

 何が面白いのか、女は嗤う。嗤って林田を挑発する。

≪な…舐めやがってぇえええええええええええ!!≫

 激昂した林田は女に襲いかかる。アンコウのような大きな口を開いて

俺をそうしようとしたのと同じように女を丸飲みしようと飛びかかった。

 しかし、そんな身の毛もよだつ恐ろしい林田の行動を前にして女は

冷徹な表情を崩さなかった。

 飛びかかる林田の下に潜り込み、巴投げのように足で蹴飛ばした。林田

はそのままコンクリートの地面に背中から落ちる。

≪ギッ!! …おのれぇ…!!≫

「やれやれ…お前達はもう少し鏡で自分を見た方がいいわよ? 美的

感覚が欠如しているわ」

 すると女は担いでいた黒い筒を足元に落とす。つま先で筒の端を

蹴ると筒が縦に開いて何かが飛び出した。

 それは二振りの刀。刀なんて詳しくないしよく分からないが

少し短めに見える。

   

 それを手に取り女は構える。二刀流…前も見た姿だ。

≪何だお前。私達を……“ルナディクラ”を知っているのか?≫

 るなでぃくら…? それがあの時の化け物とか、林田の今の姿の

事なのか?

「えぇ、よく知っているわ……」

 一瞬、女の矛盾した表情が更に激しくなったような気がした。

 黒ずくめの女は右手は普通に、左手は刀を逆手に持って前に出した構えを

取っている。…刀を取り出してから明らかに女の纏う空気が変わった。

素人の俺でさえ分かる程に…

 だがそんな女を前にして林田は動かない。どう襲いかかるか

機を窺っているようだった。

≪………まぁいい。お前が何だろうがこの際どうでもいい。

しかも仲野と“同じ位凄い力”を持っているな…女は食べた事ないけど

お前みたいないい女は美味しそうッ!!≫

 俺と…同じ位凄い力? どういう事だ?

 そんな俺の動揺を余所に林田が女に襲いかかる。

「速ッ――――」

 その動きは速過ぎて俺には見えなかった。しかし―――

≪ギャアアアアアアアアアッ!!≫

「ごめんなさいね、私にはそういう趣味はないの」

 女には見えていた。俺の目には急に女の目の前に胸を刀で貫かれた

林田が現れたようにしか見えなかった。刀を抜くと同時に林田を蹴り

飛ばした女は“飛ばされた林田と同じスピード”で接近する。

≪な、なんだお前…何なんだお前ぇええええええええええ!!!≫

「知らなくてもいいわ」

「林―――――」

 俺が手を伸ばしその名を叫ぼうとした瞬間には、女が両手の刀を横に

薙いで林田の体を上半身と下半身に分断していた。俺の開かれた手の

向こうは黒い血を撒き散らして地面に鈍い音を上げて落ちる林田がいた。

「…………ッ!!」

 俺は…今何を…?

 何で林田の名を叫ぼうとした……?

 斬られようとした瞬間、仲間達と馬鹿やってる時に笑う林田の顔や

ベッドの上での淫らな姿、哀しい過去を語る時の表情が脳裏に浮かんで…

「くっ……」

 なんて勝手な奴だ…俺は…!!

 林田をああしたのは俺だ。俺なのに、今更だ!

 なんて最低な……

≪ギ…ギギギッ!! ギギィイイイイイイイイイイイ!!!!≫

「なっ!?」

 その時だった。人間の声とは思えない不気味すぎる声を発して

倒れた林田の上半身が宙に舞った。良く見れば背中に羽のようなものが

付いている。

「死に際に空を飛ぶ事を覚えたようね」

 だが、それも無駄な抵抗だった。

≪ギィピャアアアアアアアアアアアアアア!!!≫

 女に襲いかかった林田は縦に真っ二つに斬り裂かれ、嫌な音を立てて

地面に落ちた。そのあまりにもあっさりと命が失われる様を見て俺は

呆然と立ち竦むだけだった。

「林……ッ!!?」

 すると林田の見るに堪えない死体はぶぢゅぶぢゅと背筋の凍る音を

立てて溶けていく。10秒も経たない内に死体は黒い液体へと変わり

その場には黒い血だまりだけが残った。

「あ……あぁ………あぁぁ〜〜〜〜〜〜………」

 俺は膝を付き、訳の分からない声を発して頭を掻き毟った。

 なんだ…なんなんだこれは…!?

 もういい加減、頭がぐちゃぐちゃだ。

 突然現れた化け物、黒ずくめの女、変貌した林田…

 どうしてこんな事が起こる……どうして俺の周りでこんな事が

起こる!?

「ちくしょう…ちくしょうッ、ちくしょおおおおぉ〜〜……」

 色んな感情がぐちゃぐちゃに混ぜ合わさり、視界が滲む。

 こんな状況で泣かない方がどうかしてる。これで涙も流さないような

奴はまともな神経をしていないか、人間じゃないかだ。

「フフフッ、涙なんか流してみっともない」

 腕を凄い力で引っ張られて俺は強制的に立ち上がらされた。歪んだ

瞳にすら入り込む黒が間近に、そして小馬鹿にした三日月の形をした

口元を映し出す。

「とっととここから逃げないとあなたも捕まるわよ?」

 いっそ捕まえてくれ…俺を人間の世界に閉じ込めてくれ……

 そんな願いも空しく女は引きずるように俺を闇の世界へと引きずりこむ。

 この一連の騒ぎに気付いた誰かが警察を呼んだのだろう。後ろが

何やら騒がしくなってきている。


 遂に公園の外灯が届かなくなり、俺は闇に呑まれた…




「奢るわよ、何がいい?」

「………」

 無言の俺に対し女は肩をすくめやって来た店員に注文する。その

選んだ品物の名を聞いて俺は不覚にも苦笑した。

「ブラックじゃないのかよ…」

「見た目と合ってないでしょ?」

 ただ笑いを取りたかったのか、それとも砂糖無しでは飲めないのか…。全く

意図が読めないその注文は俺にはどうでもよかった。

 女に引きずられ俺達はファミレスへと足を踏み入れた。

 …いや、俺は“同行”したのだ。女もきっと俺の考えを読んで

この場を設けた……考えすぎかもしれないが。

「さてと……どうだったかしら? 友人? 恋人? まぁどっちでも

いいけど、彼女を殺せと命じた感想は」

「………」

 その質問を濁すように俺はコーヒーに口を付けた。苦味が口一杯に

広がっていく。…怒りとも悔しさとも分からない感情が紛れるかとも

思ったが、大した効果は無かった。

「まぁ仕方ないわよね。あんなに可愛らしい女の子がアンコウみたいな

化け物になっちゃうんだから。引くわよね、普通」

 この女はどうしてこう何事も無かったかのように喋れるのだろう?

 化け物とはいえ、人間だった“者”を殺したんだぞ?

 この女に対する印象はブラックの苦味とまるで一緒、いや、それ以下だ。

 …だが、このままこの女に喋らせていても埒があかない。

 もう自分は関係ないとか言っている状況じゃない。もう俺は“あの世界”に

引きずり込まれたんだ。事情も知らないまま死にたくはない。

「…話せ」

「うん?」

 俺が何を言うか分かっている癖に首を傾げる女に腹を立てながらも

俺はいよいよその言葉を口にする。

「…俺はなんなのか。どうして化け物達に狙われるのか。あの化け物達は

なんなのか。……話せ」

「お安い御用」

 良く出来ました、と言わんばかりに口を歪ませ嘘っぱちの笑みを浮かべた

女は甘いコーヒーに口を付けた後、話を始める。

「まず奴らの名前、総称はルナディクラ。“ルナ”は分かると思うけど

“ディクラ”は造語ね。奴らの言葉で“魔獣”を意味するらしいわ」

「ルナディクラ…」

 その名は林田も口にしていた。ルナディクラ……俺の日常を破壊した奴ら。

「あいつ等は…人間なのか? 林田は化け物に変わった……あれは―――」

「ククク……」

 女は笑った。…いや、“嗤った”。

「人間? あいつ等が? ……ッククククク……」

 最初は肩を揺らして、そして堪えられないように腹を抱えて嗤う。

 それは馬鹿にするような笑いだった。そこまで可笑しい質問ではなかった。

「アハハハッ!!! 冗談じゃない!」

 嗤い終われば顔は憎悪に満ちる。殺意というのか、素人の俺でも

それは感じられた。俯き顔を覆った長い髪から覗く表情はとても直視

出来るものではない。自然と喉が鳴る。

「奴等はただの化け物。そう、化け物……」

「…?」

 なんだ? 今、こいつ悲しい表情をしたような……

 いや、目の錯覚だ。この女がそんなご大層な感情を持ち合わせているはずが

ない。…俺も疲れているんだ。

「ルナディクラは人間に擬態する。昼はのうのうとその人間として生きて

いるけど、奴等は月の出ている夜にその姿を現すのよ」

「擬態…月の夜……」

 道理で…。俺の思った通りだったか。それに…

「擬態……じゃあ、あの林田は本物じゃないって事か……」

 良かった…いや、良くはないが本物の彼女を殺せと命じた訳ではない事に

安堵の息を吐いた。そんな俺を見て口だけ嗤う女は相変わらずイラつくが。

 …しかし、アレはいつから林田に擬態していたのだろうか……そう思うと

背筋に悪寒が走る。

「もしあいつと出会う頃から、あいつはルナディクラだったらどうしよう?

…顔に出てるわよ?」

「チッ…」

 どうもこいつは俺を苛立たせる事の天才のようだ。何から何まで腹立たしい。

 …だが、言い当てられて動揺してしまうのも確かだ。もしそれが本当

だったなら……

 …止めよう。今更考えてもどうしようもない。林田は…死んだのだ。

「…じゃあ次の質問だ。…これが一番の問題だ」

「あなたが何故狙われるか、でしょ?」

 …話が早いのはいいが、こうも先に答えられると嫌になる。

「単純に俺が運悪く奴らと鉢合わせしたのか? いや、違う……

以前俺を襲った奴はこう言った。“一番の獲物”だと。明らかに俺を狙っている

口振りだ。これは一体どういう事なんだ!?」

 自然と声が大きく、荒げる。…それは最悪の事態を危惧して不安に

なっているからだろうか。

「そうね…理解できないと思うけれど。…人間には稀に膨大な力……

特殊なエネルギーのようなものを持っている者が産まれるの」

「一体なんの話――――ッ!!」

 ちょっと待て、その話の筋からすると導き出される答えは…

「あなたも察しがいいわね。そうよ。信じられないとは思うけどあなた

そのエネルギーを体に秘めているの。それも半端ない位のを。…奴等が

涎垂らして襲いかかるほどにね」

「なっ…!?」

 なんだそれ!? 俺にそんなものが!?

「ちょ、ちょっと待ってくれ! なんで俺にそんなものがあるんだ!?

俺はただの学生だぞ!?」

「落ち着きなさい、それが事実よ。現にあなたは奴らに襲われたじゃない。

ルナディクラはそういうエネルギーを秘めた人間しか襲わないのよ」

 そんな馬鹿な! こんな馬鹿な話があるか!

 俺の体にルナディクラの好物があるから、だから俺は狙われる!?

「そんな…冗談じゃない! なぁ、それってどうにもならないのか!?」

「えぇ」

 女はきっぱりと応えた。何の淀みも、それが真実なのだと簡潔に。その

短すぎる肯定が何よりも真実を表していて……

「はっ…ははっ…」

 テーブルに両肘を付き、落ちる頭を支え掻き毟る。

「そうね…例えば果物とかが良い例ね。果物は自分が食べられると思って

生きている訳ではないでしょう? 他の家畜とかにしたってそう。ようは

それだけの事よ。ルナディクラにとっての果実が人間…それも突然変異の

美味な果実なんて特に。そう、それだけの事よ」

「反吐が出る御高説…」

 なんとも分かり易い説明、痛みいる。生物の頂点と勘違いしている

人間様には耳の痛い話だ。

 普通ならそんな馬鹿なと切り捨てる話だが、実物…ルナディクラを

見てしまってはそんな考えには至れない。奴らの俺を見る目。それが

何よりもの証拠だ。…林田も俺を極上の御馳走を見るような血走った

目つきをしていた……

「……ちょっと待てよ?」

 そこで俺はふと気になった。

「…どうしてアンタはそれが分かる?」

「何? 私の事疑ってる訳?」

 こいつが普通の人間じゃない事は確かだ。あの化け物をいとも簡単に

殺す腕前……普通じゃない。

「…奴らと戦う為には人間捨てなきゃならない。私は奴等を殺す為だけに

何もかもを捨て腕を磨いた。…人間らしい暮らしを何もかも捨てて……」

 女の表情に影が入る。…見間違いか?

「何度も打ちひしがれ、血反吐を吐いて……その副産物のようなものかしらね。

そういう《もの》が見えるようになった…」

 ぎりっ、と女は本当に苦虫を噛み潰すように歯を噛み締めている。

 自虐めいたものも見え隠れしていた。…とはいえ、こいつの過去なんて

どうでもいい。俺に必要なのは事実だけ。

「…嘘じゃないんだな」

「まぁ、信じるも疑うのも、あなたの自由だけど?」

 …これだ。これが気に食わない。こっちを…無知を馬鹿に……いや、

不幸だと言わんばかりの口振り、嘲る顔。

 これが俺は気に入らない……命を二度も救ってもらって……

 いや、救うなんて高尚な考えをこいつが持っている訳がないか。

「……」

 頭を掻き毟る。爪に血が付いていたが気にしない。

 話を聞いていく内に俺は最悪のシナリオを考え付いた。この女の話なら

まだルナディクラは何処かに潜んでいる…何処にいるかも分からない奴らが

俺を狙っている……もしかしたらこの店の中にも……

「なぁアンタ!」

月夜つきよよ」

「は?」

「月の夜と書いて月夜。私の名前」

 宙に字を書くように指を走らせる女。唐突な自己紹介に俺はペースを

乱されてしまった。

「別にアンタの名前なんてどうでもいい!」

「あらそう」

 女は気にもしない感じだった。…なら名を名乗るな。

「アンタ、理由は知らないが奴らを殺すのが生業なんだろう!? だったら

この街のルナディクラを一匹残らず殺してくれ! 一刻も早く、今すぐに!」

 この女に頼るなんて反吐が出るが、何の力もない俺にはどうする事も

出来ないのが現実だ。…漫画やアニメとかと違って、急に未知の力が解放され

俺が奴らに対抗できる、なんて痛い話がある訳がない。奴らの事を思い出すだけで

震えが止まらない俺に何が出来る?

 女に関わらないでくれと自分から言った癖に身勝手なのは承知で俺は

懇願する。自分がそんな存在だと分かっているのにこの女に化け物退治を

頼まない馬鹿はいない。

「俺達の利害は一致している。文句はないだろう!?」

 つい声を荒げて周囲の客やらに不審がられるがこの際どうだっていい。

 後はこの女が承諾してくれるだけ――――――――

「まぁあなたの言う事に間違いはないけど…それはお友達も斬っていいって

事よね? まぁ既にそれは許可されているようなものだけど」

「…何を言っている?」

 俺は女の言っている事がすぐに理解できなかった。

「だから、お友達もって事でしょ? さっき斬った奴の他にもルナディクラ

じゃないって保障はないわよ?」

「くっ……」

 それは…そうだ。痛いほど身に染みている。さっき自らそれを体験した

ばかりじゃないか。いつも一緒にいたダチだろうと…

「だ、だがそんな事を言ったらキリがない!」

「そう、キリが無いのよ」

 女は飽き飽きした表情で答えた。

「雑魚のルナディクラなら擬態していても私は分かるわ。…でも、強い奴。

格上のルナディクラはそうもいかない。…上手いのよ、化けるのが」

 視線が店の中を泳ぐ。俺はすぐにその意図を読み取り背筋を凍らせる。

 …もしかしたらいるかもしれないのだ。この中に。奴等が……

「そうやって奴等は世に蔓延っていく。ゴキブリもびっくりする位にね」

 俺の知らない、いや、世界中の人間が知らぬ間に世の中は奴等に侵食

されていた……全く俺達が気付かずに。

 それによくも今まで俺は生き延びたものだ。その問いに女はこう答えた。

「どんな食べ物にも食べ頃ってのがあるでしょう? あなたは今がまさに

それなのよ」

 そんな事を教えられても嬉しくない。

 …いや、ちょっと待てよ? それってつまり…!!

「そ、それを早く言ってくれ! じゃあその食べ頃が過ぎれば俺は――」

「それは無いのよ」

 希望を打ち抜く女の言葉。それは正に俺の胸を貫いた。俺の心臓を一瞬

止めたのだ。

 何故そうなったか? それはこの女が俺に嘘をつく理由がないからだ。

 だから俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。いや、なった。

「な、なんだよそれ……な、なぁ? どうしてそう言い切れる? あんた今

言ったじゃないか。食べ頃がどうのこうのって…」

 藁にもすがる思いで俺は意味のない質問をする。

 止めろ、訊くんじゃない。

 そんな声が聞こえた気がする。俺は今、確実に訊いてはならない事を

訊こうとしている。

 だが人間は好奇心には勝てない。それが例え自分の身を滅ぼそうと

いう事実だとしても――――――

「まぁ、同情するわ。自分がどれだけ化け物達にとって美味しそうな

御馳走だって事を理解できないのは」

「何…を…」

「あなた、尋常じゃないわ。全身から極上のエネルギーが溢れ出ている。

言っておくけど冗談じゃないわよ? どうやっても隠しようがない。

私の目からはあなたが眩しくてよく見えないほどよ?」

 女が口を開けば開くほど、絶望が広がっていく。何も知らないで

聞けば馬鹿みたいな事ばかり言っているが、今更そんな事は出来ずただ

この黒ずくめの言う事を真実と受け取る俺がいた。

「あなたは恐らく食べ頃が終わる事はない。確かに時間が経てば今より

鮮度は落ちるでしょうけど、これほど凄まじいのは今まで見た事がない。

……それ以前にあなたがこれから生き残れる可能性の方が0だから

どっちにしろ食べ頃とかどうとか言っても仕方がないのだけれど」

「………そう、か………」

 終わりだ。俺は全身から力が抜けていくのを感じた。

 夜はなるべく人気のある場所にいれば安心? そうやって一生化け物達を

警戒しながら生きていく? ただの高校生の俺が?

 …無理だ。出来る訳がない。女の言う事が正しければルナディクラは

今も虎視眈々と俺が一人になるのを狙っている。たった一度のミスも

許されないのだ。

 女の言う通り、その前に奴等に食べられて終わりだ。俺の人生は。

「は、はは……」

 今すぐ死ぬ訳じゃない。だが、もうおしまいだ。ここ数日で既に

二回も襲われている。これは低い数字か? 高い数字か? ともかくそれが

まだ続く。延々と続く。俺が俺である限り、一生。

「もう…俺は終わりなのか…? それとも、あんたが俺を助けてくれるのか?」

 あれほど嫌っていたこの女に縋るような真似をしてしまうほど俺の精神は

ぐちゃぐちゃに潰されていた。

 馬鹿みたいに震え、怯えた声が自分のものとは思えなかった。そんな俺の

懇願を女はまるで他人事のように軽く耳を傾けるだけ。

「そうね…あなたみたいな極上の“撒き餌”は今まで見た事ないし。

当分あなたの近くにいれば奴等を探す事に困る事はないわね」

 お前の命などどうでもいい。奴等さえ殺せれば。お前はその為の生贄。

 女の冷たく、どこまでも深い闇のような瞳がそう告げていた。

「はは……ははは………」

 この女が傍にいてくれれば、とりあえず俺の身は保障される。

 ただ、それは植物人間を延命させるのと同意だと言う事も理解している。

 死にたくない…だけど、いつか死ぬ。殺される。

「これからよろしく」

 そう、これは地獄の始まり。死へのカウントダウン…

 例えこいつがこの街に巣食う奴等を全滅させた所でまた奴等は現れる。

 それはいつまで? いつまでこの女は俺をダシにしてくれる?




 …もう俺に希望なんて、有りはしないのだ―――――



《続く》


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