黒の女と夜の月 満月


「ではまた。あなたが奴らに襲われる時にでも」

 月夜と名乗る黒ずくめの女は含めた笑みを口元だけに浮かべ俺の家の

前から去って行った。…律儀に俺の家の前まで同行してくれたのは

決して善意でも何でもない。…別に俺の心が荒んでいる訳ではない。

 街灯が照らす薄暗い道を歩いて行く女。やがて闇に溶け込むのをみると

少し気味が悪くなった。闇の生き物が闇へと帰る……そんな風に

見えたからだ。あの女は人とは違う…何か別の生き物のように見えて…

「…まさかな」

 あの女もルナディクラ? とも疑ったが、それなら俺を見逃す訳がない。

 それにあの女のルナディクラに対する得体の知れない憎悪は本物だ。

得体の知れないあの殺気…執念のような憎悪……

 これからあんな奴に頼らないといけないのか…俺はそんな絶望的な

未来に身震いしながらも安心を求めて家へと入る。

 “ただいま”という言葉は意味がなかった。何故ならこの家には誰も

帰ってきていなかったからだ。俺の家には両親と俺の3人のみ。今日は

夜だと言うのに親は家にはいなかった。何処かに出かけているのか、

それともまだ仕事から帰ってきていないのだろう。

 …無意識に舌打ちしていた。あの二人はどうでもいいのだ。家の事など。

 …俺の事など……

「全く、酷い親だな」

 心臓が凍った。誰もいないはずの家の中。その闇から幻聴ではなく

確かな生の声が聞こえたのだ。

 動悸が早くなる。おかしい、その“声”はこんな所で聞こえる訳がない!

 第一、鍵はかけてあったのだ。他人が入れる訳がない。

 空き巣…?

 それだったらまだ“マシ”だったろう。何故なら…その“声”は何度も

聞いた覚えのある“声”だからだ……

吾妻あがつま……」

 すると急に玄関が明るくなる。電気がつき、そして薄らと見えていた

人物の姿を露わにする。吾妻…俺のダチでもあるその男が鍵のかかった家に

先に入っている…それは明らかに異常事態だった。

「たまには仲野の家に遊びにでもと思ってな」

 吾妻はいつものスカした笑みを浮かべながら近づいてくる。

 

『…それはお友達も斬っていいって事よね?』

『だから、お友達もって事でしょ? さっき斬った奴の他にもルナディクラ

じゃないって保障はないわよ?』

 

 俺は吾妻の笑みにつられ顔が引きつる。

 ファミレスでの言葉が脳裏を駆け巡る。


 …これは何だ? 一体何なんだ?


 悪夢だ……なんて性質の悪い悪夢……

「仲野? どうした?」

「止めろ……」

 声は怒りと絶望とで震えていた。これが映画だったら最高に最低のシナリオだ。

 目の前にいる奴は吾妻だ。そして……

「止めろ…そのいつもの感じで喋るの。分かってるんだ…分かって……」

 「何が?」と首を傾げる吾妻の姿に俺は堰が切れるように叫び散らした。

「林田もそうだった…いつもと同じだった…どうして…どうして一緒なんだよ!

どうして《お前ら》はいつもと一緒なんだよ!!!」

 数秒の沈黙。それが俺には数分にも感じられた。

 くつくつと笑い声が聞こえる。俯いた吾妻が肩を震わせる。

 ゆっくりと顔を上げた吾妻の瞳は…月の色で―――――




「いきなり、か。釣りの風情も何もあったものじゃないわね」

 暗闇の夜空に月が映える。

 満月になる一歩手前、といった所か。そんな月の下、漆黒のコートに身を

包んだ女―月夜はいた。近くには先ほどの男子学生の家がある。その家から

先程までついていた玄関の明かりが消えた。

「絡みつくような視線…盛りのついたケダモノね。気付いてないとでも

思った?」

 口元を歪め歩き始める月夜。あの男子学生の気配…膨大なエネルギーを

辿る。その方向に何があるのか予想はついていた。

「しっかりエスコートしなさいよ? …それにしても、何が目的かしら…

これは明らかに私を誘っているし……」

 だが何があろうと関係ない。そう心の中で呟くと月夜は闇の中へと

踏み出していった…




                  ◆




 声が聞こえる。それも聞いた事のある馴染みの声……

 毎日聞いている、あいつの……

「ん……」

 目を開いてもそこは暗闇。いや、完全に暗闇という訳ではない。暗闇の

中に全てを包むはずの闇を退けるかのように白く輝く丸い月。何故広い

空にぽつんとあるだけの月がこうも世界を照らし出すのだろうか…

 そんなどうでもいい事を考え、俺は起き上がった。

「おー、やっと目が覚めたか」

「なっ…!?」

 急に真横から声がして俺は後ずさった。

「いっ…!?」

 背後に壁があった事に気付かず俺はしこたま頭をぶつけた。一瞬目の前が

真っ白になり、後頭部に激痛が走る。頭を押さえて蹲る俺を笑う誰か。

 …いや、誰なのかは声を聞けば分かる。この声は曽我だ。

「馬鹿だな、何やってんだよ」

「いつつ……」

 頭をさすりながら立ち上がり、すぐ傍にいた曽我の姿を確認する。そして

暗がりを見回すとそこは机と椅子が並ぶ部屋だった。

「教室…?」

 しかもここは俺のクラスの教室…? どうして俺が夜の教室に?

 そんな疑問はすぐに解ける。そうだ、俺は吾妻に襲われてそして……

 そこから記憶がぱったりと途切れている。確か腹にパンチを貰ったような…

「どうしてこんなとこにいる、だろ? …まぁ、落ち着けっていう方が

無理な話だけどな」

「曽我…お前……」

 俺も馬鹿じゃない。ようやく覚醒し始めた頭が回り始める。この状況が

意味するのはただ一つ……

「嘘だろ……お前も…なのか?」

「あ〜…先に言っておくが植山もだ」

 開いた口が塞がらないというのは正にこの事か。俺の中が絶望に満ちていく。

 まさか…俺のダチが全てルナディクラ……

 眩暈がして体がふらつき、すぐ近くの机に手を置く。まるで天地が

ひっくり返ったかのような感覚が俺を襲う。

 今まで全ての日常が…俺が安らげる時間全て……

「仲野…」

「わああああああああああああああ!!!!」

 近づいてきた曽我に対し俺は近くの机を蹴飛ばして距離を置く。

後ずさる曽我の顔が陰るのは気のせいか…?

「ふざけんなよ!! 何だよこれ!! 何だこの出来の悪いストーリーは!!!

そんな馬鹿な事があるか!!」

 俺は滅茶苦茶に机や椅子を蹴り飛ばす。もう林田の時の比ではない。

 ぐちゃぐちゃの頭のまま俺は曽我へ詰め寄り殴り飛ばす。曽我は

身を守ろうともせず、俺の拳を甘んじて受けたようだ。

「お前らは俺が目当てで近寄って…表ではダチの面をして、裏では舌舐めずり

して……性質の悪い冗談だ…こんなのは…こんな…こんなっ!!!」

 意味のない八つ当たりに嫌気が差して俺は近くの椅子に力無く腰かけた。

「…お前も難儀だよな」

 口を拭った曽我が立ちあがる。…暗くて見間違いかと思ったが、曽我の

口から流れる血は黒かった…

「生まれながらにして持っている訳の分からないモンのせいでこんな目に遭って…」

「止めろよ!!」

 何だその同情に満ちた目は? 憐れんだ目は? 俺を喰おうとしている

化け物の癖に……

「化け物のくせに…お前ら化け物のせいで……化け物のせいで俺の日常は…

滅茶苦茶なんだよ!!!」

「仲野……」

 学校の…こいつ等といる時だけは楽しいと思っていたのに…ここだけが

俺にとっての“居場所”だと思っていたのに……

「化け物化け物と…俺達にはルナディクラという名があるのだ。もう少し

品のある言い方をするんだな」

 教室の扉が開くとそこから現れたのは吾妻。眼鏡の奥にはあの月の色の

瞳が鈍く暗闇の中で輝いている。

「吾妻……」

「やれやれ、嫌われたものだな。こうも簡単に関係が変わるとは…

“人間”は怖いな、本当に

 眼鏡のずれを直しながら肩をすくめる吾妻の皮を被った化け物。

 そういえばこいつに聞きたかった事がある。今の状況を含めた事を…

「…一体何が目的だ? 俺をこんな所に運んで…俺を喰おうと思えば家で

やっていたはずだ」

 そう、こいつ等は俺の中にある膨大なエネルギーとやらが目的なはず

なのにまだ俺を喰わずにいる。それは一体何故か? 最初に出会った

ルナディクラも林田も俺を喰おうと躍起になっていたというのに…

「フフフ…そうだ、確かにお前の言う通り俺には目的がある。

安心しろ、お前を喰おうなどとは思っていない」

「頭いい癖に嘘が下手なんだな、吾妻」

 気味が悪い位に上機嫌に口元を歪める吾妻は明らかに俺を道具のように

見ていた。対する曽我は吾妻と違ってさっきから居心地の悪そうな顔を

しているのだが…

「仲野、頼むから吾妻を怒らせるような真似はすんなよ? 本当にお前を

喰おうなんて事はしないからさ…」

「本当にそうだったらどれだけ嬉しい事か…」

 こいつ等…いつまで今まで通りの俺達を演じるつもりだ…吐き気がしそうだ。

 だが俺が生かされてるのは事実のようだ。“目的”とやらに興味はないが

俺が生き残れる可能性が上がったのは助かった。何もされず時間が

経てば必ずあの女がこいつ等を狩りに来てくれるはずだ。女が言うには

俺を探すのは簡単らしいからな。

「――――――――!?」


 そう考え、不意に嫌な考えが湧きあがる。


 もし、もしもだ。

 吾妻の目的があの女であったとしたら?

 …あり得る。見計らったかのように俺の家に入っていた事といい、

吾妻があの女を目障りに思い始末しようと学校へ誘き寄せる…

そういう筋書き…

 いくらあの女が人間とはかけ離れた強さとはいえ、ここに

いない植山を含めて3匹のルナディクラ…他にもいるかもしれない。

一斉にやられたら例えあの女でもひとたまりもない…!

 …冗談じゃない! あの女が何処で死のうがどうでもいい事だが

俺の身を守ってもらう為にも死んでもらっては困る!

 俺が生き残る為にも…! 例えそれが永遠に続くのだとしても、

あの女に――

「それにしてもいい夜だ。完全に満月じゃない事だけが不満だが…クク」

 不意に吾妻がそんな事を言う。いつの間にか窓の傍にいた吾妻が

月を見上げているとその視線は上から下へ、月からグラウンドへと向けられる。

「そら、仲野。お前を守ってくれる麗しのお姫様がやってきたぞ?」

 奴に言われるまま窓から外を見てみれば、月の光で薄らと照らされる

校内に闇を彷彿とさせる人型の何かが入ってくる。…あの女だ。

 そして同じく何かが女に立ちはだかるように道を塞いだ。長身に金髪、

そしてこの状況からは一人しか連想できない。植山だ。

「…?」

 吾妻はまるでショーが始まるかのように笑みを浮かべグラウンドを見つめる。

 高見の見物…? あの女を袋叩きにするのではないのか? それとも?

 植山の他に誰かがいるようでも無かった。…闇に紛れているだけかも

しれないがそういう感じはしなかった。

 …吾妻が何を企んでいるのかは知らないがこれはチャンスだ。一対一なら

そうそう負けるはずがない。俺が助かる確率もうんと跳ね上がる。



 …その時の俺は、浮かれていたのだ………




               ◆




 月夜が学校を覆う塀を軽々と飛び越え校内に入ると、すぐさま彼女に

近づく影がひとつ。如何にも不良然とした長身の男だ。

「ハハッ、噂通りの上玉じゃねぇか。殺すのが勿体ねぇ!」

 月夜を見るなりコートの中まで見るかのように舐めまわす植山。舌を

舐めずり女性なら嫌悪感を抱かずにはいられない視線にも月夜は何処吹く風だ。

「俺には分かるぜぇ? コートで隠れちゃいるが、たまんねぇ身体

してやがる…吾妻の野郎もたまには良い獲物を寄越してくれやがるぜ」

 口が裂けたかと思わせるほどに植山の口は歪む。瞳の色は頭上に

輝く月と同じ。分かる者には分かる異様な“気”を体中から溢れださせている。

「クク…」

 “だから”月夜は笑った。憐れんだ笑みを浮かべた。

 彼女にはこの趣向の意味が分かっている。そして、だからこそ目の前にいる

憐れなケダモノを見て笑うしかなかったのだ。

 そんな月夜を見て流石に植山もおかしいと感じる。

 先程吾妻から話は聞いている。一刀で林田を殺した剣の達人だと。常人を

遥かに凌駕している、油断ならない相手だと。

 だが所詮は人間。それも女。か細い腕を掴み、押し倒し、怒張を膣に

突き入れれば誰も同じ。怯え、泣き叫び、絶望に喘ぎ狂う。数えきれない程に

犯してきた。またその時と同じ悦楽が味わえるのだと。

 …が、この女はなんだ?

 自分の気迫に動じず、自分を憐れんだ目で見るこの女はなんだ?

 口元は三日月のように歪んでいるのに、瞳は何処までも続く闇そのもの。

「テメェ……」

 植山の生物としての本能が訴えかける。この女は今まで犯してきた

女とは根本的に“違う生き物”だと。

 話半分に聞いていた吾妻の話が急に彼の中で大きくなってくる。重くなる。

 相手を舐めきっていた様子から一転、鋭角な刃物を思わせる殺気を

放つようになった植山を見て月夜は相手がただの不良くずれの馬鹿では

ない事を悟る。しかしそれでも尚、月夜の嘲笑は止まなかった。

「さて…と。早く終わらせましょう? 互いの為にも――――ッ!!」

 闘いは唐突に始まった。

 先手の月夜は持っていた黒い筒を植山に投げつけた。女性が

投げたとは思えないほどの速さで筒は植山に直撃するかに見えた。

「こんなもの!」

 だが植山は難なくこれを弾き飛ばす。速さも乗ったそこそこの重量も

あろう黒筒を素手で弾き飛ばしたこの男はやはり人間ではない。互いに

分かりきっている為に驚きも何も無かった。

 弾き飛ばされた黒筒は月夜の方へ飛び、途中で縦に開いた。その中から

二振りの刀が飛び出し、そうなる事を分かっていた月夜は両手にそれを取る。

 普通の刀の刀身としてはやや短い約60cm程の刀――刀とも脇差とも

言えるがここでは“小太刀”と呼称しておこう。

 右に白い柄巻の小太刀、左に黒い柄巻の小太刀を逆手に月夜は目にも

止まらぬ速さで植山の懐まで潜りこむ。「速い」と喋る暇も無く植山の

脇を通り抜けた月夜は彼の脇腹を深く斬り裂いていた。正に一瞬の出来事。

常人には何が起きたのか分からない早業だ。

「あなたが遅いのよ」

 決して植山は油断などしていなかった。むしろ危険な存在として

月夜を警戒していた程だ。だがそれでも月夜の動き、斬撃に反応する

事が出来なかった。

「あ…ぐぉ……ぉおおああ…」

 闇夜に紛れるような黒い血が植山の脇腹から噴き出し、地上を穢す。

汚らしい物でも振り落とすかのように月夜は血を払った。呻き声を

あげる植山を背に校舎へと歩く月夜は歩を止める。

「…私もまだまだね。あなたみたいな雑魚を一太刀で殺せないなんて」

 振り返らずに月夜は仕留めたはずの植山に声をかけ「いってぇ〜」と

返す植山は不敵な笑みを浮かべる。

「やるなぁ、林田を殺るだけはあるぜ」

   

 林田――あのアンコウ女かと月夜が思い返す間に植山が体を変貌させていく。

肉が軋み膨張し衣服が破れ骨が折れるような鈍く生々しい音を上げて

体勢を四つん這いにする。それは形だけ見れば狼のようなものだった。

だが顔の部分には口が無く人間だった植山の顔が細長い顔の上部にへばりついて

いるようになっている。前足の筋肉が膨張し所々に刃のような物が突き出ている。

反対に後足は細く、しかし逃げ足の速い草食動物のそれだ。

 完全に人を逸した姿―ルナディクラと変貌した植山。その異様な姿は

見た者を震え上がらせるには十分過ぎたが月夜に通じるものではなかった。

≪だが俺は林田のような雑魚とは一味も二味も、いや、三味以上だぜ!≫

 言うにしても、もう少し言葉はあっただろうに。月夜は溜め息と共に首を振る。

≪さぁ、行くぜ姉ちゃん!!≫

 植山が猛然と襲いかかる。その速さは先ほどの月夜の倍をいく。

 だが月夜は冷静な表情を崩さない。凄まじい速さで飛びかかり凶器のような

前足を植山は叩きつけてきたが、その前に飛んでいた月夜は植山の人間だった

頃の顔を踏みつけて背後に着地する。

 月夜が警戒するのは植山の前足。刃がいくつも突き出たあの前足は

厄介だ。あれで殴られでもしたら致命傷どころではすまない。ボロ雑巾に

なる事は目に見えている。一つ息を吐き、体勢を変える月夜。それは植山と

同じく屈んだ獣のような体勢で、両手は後ろへ伸ばしている。

≪ハハッ、俺の真似ってか? そんなの無駄無駄、二番煎じなんて通用しないぜぇッ!≫

 愚かな行為だと笑う植山は刃のついた前足で頭を守りながら突進してくる。

これでは小太刀で攻撃しようがない。

≪さぁどうするよ姉ちゃん!! オラオラァァッ!!!≫

 植山の突進が月夜を襲う。刃でボロ雑巾のようになった月夜の姿が植山の脳裏に

浮かんだが、手応えがまるでない。それが意味するのは――――

≪なっ!? 潜り抜け―――――≫

 そう、月夜は刃が触れる限界まで引き付け地面に顔が付く位まで姿勢を

低くして植山の前足を避け、更にはその懐へと潜り込んだのだ。そして

無防備な植山に何もしない道理もなく――

「《下弦》」

≪グギィイイイイイイイイイイ!!!!≫

 植山の腹の下で体を反転させ月夜は二つの小太刀を容赦なく突き刺す。

ただ刺すだけでなく、臓物を掻き回すように抉る。当然だが大気が揺れる

ような金切り声をあげる植山。黒い血が大量に体へ降り注ぐ前には月夜は

その場から抜け出ていた。

 この間、僅か一秒。神業と呼ぶのが陳腐に思える位に鮮やかであっけなく。

 僅かに頬に付いた黒い血を拭う月夜は振り向き構えを取る。倒れ

痙攣している植山に対し。既に勝負は決したと普通は思うだろう。だが

これは人と人との闘い…殺し合いではない。相手は人知を超える化け物、

月の魔獣。たかだが腹を裂いた“ぐらい”で死ぬ訳がない。それは月夜が一番

よく知っている。…なのだが、月夜は舌打ちした。

「…甘い……これでは……」

 今まで冷静に、冷徹で歪んだ笑みを崩さなかった月夜が明らかに苛立って

いる。視線は痙攣しながらも起き上がる植山に注がれていた。

≪グギェエエエエエエエエエエエエエエ!!!≫

 大気が振動する奇声をあげ、腹から臓物を垂らしながらも高く飛び上がる

植山。既に人の理性は無く、手負いの獅子の如く猛然と迫りくるこの

化け物に隙は無かった。

 ――しかし、それでも月夜には届かなかった。

 凶器の前足でその体を挟み込まれる瞬間、月夜はバク宙でそれを避け、

しかも宙で舞うように植山のある部分を斬り裂いた。そこは刃のついた

前足。小太刀と刀が触れ合わない僅かな隙間を月夜は宙を舞いながらの状態で

斬り裂いたのだ。およそ人間業ではない。

≪ギャッ、ギュ、ギュアアアアアアアアアアアアア!!!!≫

 そこを斬られた植山がかつてない反応を見せる。腹を斬り裂かれた時でも

このような尋常ではない叫びをあげなかった。…まるでそれは致命傷を

負ったかのような叫び。

「最大の武器である場所が最大の弱点……あなたのような低能な奴が考えそうな事ね」

≪アッ、ギャギィッ! ギッ、ギギッ、ギギギ……ギ…≫

 植山に背を向け黒き血を払う月夜。痙攣し、動かなくなった植山の体は

溶けだし後に残るのは黒い血だまり。

「前座にしては最低ね」

 そう言い残し月夜は小太刀を黒筒に仕舞わず玄関へと足を踏み入れる。鍵が

かけてあるはずのガラスの扉は当然のように訪問者を迎え入れた……




               ◆



 つ、強い……

 何が起こったのか訳が分からなかった。ただあの女と植山が交錯すると、

植山が黒い血を噴き出しそれを三回繰り返すと林田の時と同じく溶けて

黒い血だまりと化した。十秒も経ったか? という疑問すら馬鹿馬鹿しく…

 本当に何者なんだあの女…普通じゃない事は重々承知しているはずだったが…

 だが化け物よりも化け物じみた強さだとしても俺にとっては有益だ。

こいつ等を死へと導く死神……

「フン…植山の奴、所詮は三下。見世物にすらならん」

 吾妻の奴…犬猿の仲とは言ってもこんな吐き捨てるような間柄じゃなかった。

…いやこれこそがこの男の本性だったのか……それとも、ルナディクラの…

 …いや、俺もこいつと変わらない。正体を知っただけでこいつ等を

化け物扱い…ダチを…簡単に化け物と…殺してくれと頼めるのだから…

「吾妻…お前、何の為に植山を…」

「奴は捨て駒だ。俺があの女の動きを見る為の、な」

 もう驚きはしない。こいつは吾妻ではないのだから。だが人の皮を

被ったままでいてほしくはなかった。…例え出会った最初から

ルナディクラだったとしても。

 ―その時だった。曽我が吾妻にバレないよう俺に目配せしている。

何だ…? 曽我の視線は教室の外、廊下に向けられている。

 曽我の考えは分からない。が、俺を嵌めるとしても状況的に意味が

ない。ここは曽我の考えに乗った方がいいのか…? あの女もこっちへ

向かってきていて、今は下手に動く必要はないのでは?

 しかし吾妻があの女をここへ誘き寄せる為に俺を拉致ったのなら、既に

俺の役目は終わっている。いつ奴に喰われてもおかしくはない…

むしろ今ここで動いてあの女と合流した方がいいのでは?

 不意に吾妻が俺を見る。その瞳は暗がりの中で鈍く月のように

光っている。そして歪んでいた瞳が更に醜悪なものに変わっているような

気がした。まるで待ちに待った御馳走を食べる奴のような―――――

「ッ!!」

 俺は全力で廊下へ向かって走った。その俺を曽我は片手で抱えドアを

ぶち破った。

「曽我、お前…!!」

 瞬きもしない内に曽我の身体が変貌する。言うなればそれは馬。

月の色をした馬だ。曽我は俺を背に乗せ廊下を凄まじい勢いで駆ける。

まるで自分が風になったような錯覚を覚える程に速かった。

「どうして俺を助ける!? 一人占めでもするつもりか!?」

≪お前は信じないと思うが、ルナディクラにも色々あるんだよ!

ルナディクラ全てが力のある人間を喰おうとしている訳じゃないんだ!≫

 確かに信じられない言葉だ。この曽我の行為も吾妻の趣向では

ないと否定する材料ではないかもしれない。正確には分からないが曽我は

吾妻に従っているような口振りだった。勝手にこんな事をして得があるとは思えない。

 少なくとも、どうしてか今は曽我は俺の味方と言っていいと思えた。

変貌し過ぎた友人だったモノの背に身を預けながら、俺はふとそんな風に

思った。あれほど怒り狂った相手だというのに。

≪吾妻はお前が考えているよりずっとヤバい。だがあの女と協力すれば

倒せるかもしれない≫

「どうして…」

≪…仲野、お前達と騒いでいる時が俺の人生の中で一番楽しかったんだよ。

ただそれだけの理由だ…信じられないとは思うけどな≫

 その言葉を聞いて俺は曽我達と馬鹿やってる時の事を思い返した。

 楽しかった。楽しい毎日だった。

 クソとしか思えない毎日で唯一楽しい時間が…こいつらと騒いでいる時だった。

「……ッ…」

 散々こいつ等の事を化け物扱いしておいて…それはないだろ?・・・・・・・・

 本当に最低な奴だ、俺は。今更…今更……!!

 曽我も林田と同じように俺を喰おうとするかもしれない。だが今だけは……

≪よし、そろそろあの女と――――ギギィイイイイイイイイイッ!!!≫

「曽我ッ!?」

 風の如く階段を飛び降りようとしたその時だった。突然曽我が絶叫とも

言える奇怪な叫び声をあげると姿勢が傾き俺は宙に舞う羽目になった。

背中から壁に激突してしまい、激痛が背中を襲ったが気絶する程では

なかったのは良かったと言えるのか。起き上がるのも億劫な痛みに耐えながら、

俺は何が起こったのか周囲を見回すと痛みを忘れるかの如く息を呑んだ。

 …そこには、四本の脚を全て切断されびくびくと痙攣している曽我の姿が――

「曽我ッ!!! くっ…!!」

 立ちあがる事も出来ず、駆け寄る事も出来ない。今ほど動けない事が歯痒いと

思った事はない。しかし奇声を断続的に上げながら痙攣する曽我は見るに堪えず…

「三下は考えも三下だな。馬鹿な奴だ、俺に従っていればこうならずに

済んだものを」

「吾…妻…!」

 階段をゆっくりと降りてくる吾妻は正に悪魔。外から漏れる淡い月の

光を背に光り輝く双眸の姿はそれを連想させるには十分過ぎるものだった。

「お前も馬鹿だな仲野。あの女が来るまで待てばいいものを…」

「くっ…!」

 確かに浅はかだったかもしれない。それは認める。明らかにこれは

誤算だ…しかし一秒でもあの場にいれば喰われていた可能性は強い。

 …結局、俺は自分の身可愛さに曽我を犠牲にしたのか…つくづく俺は…

≪ギピッ……吾…妻…!≫

「呼ぶな、気分を害する」

 吾妻が腕を振った…と思う。速過ぎて見えなかったが。すると―――

≪ガッ…ギギギィイイイイイイイイイ!!!≫

「なっ…!?」

 曽我の体が腹から分断された。黒い血が辺りに飛び散りその場でのたうち

回る。今のは曽我がやったのか…!? 一体何を…いや、それよりも曽我が…!!

「残念だよ曽我。お前とはいい交友関係を持てたと思っていたんだが…」

≪ギッ…ギギッ……≫

 既に死を目前の曽我に近づく吾妻。何を…何をする気だ、こいつは?

「吾妻…止めろ…おい…!」

≪なか…の……≫

「曽我!」

≪………おれ…た…ち……は……とも―――――≫

 その先は頭が砕け散る生々しい音で聞けなかった。「あ」と間の

抜けた声を出したと思う。

 吾妻の無情な足は曽我の頭を無慈悲に踏みつぶした。色々、見た事も

ないようなモノが飛び散った。

「あ…あぁ……」

 何だ…それは。

 化け物になろうと曽我は曽我だった。本当の所はどうだったか

分からないがあいつは“曽我”だった。一番の仲のいい、ダチ…喧嘩もする……

 それが、こんなにも簡単に終わる。あっさりと。

「何で…こうなる……」

 林田、植山、曽我……偽りの友情ごっこだったのかもしれない。俺自身

それを終わらせたからこんな風に思うのはとても身勝手な事だとは思う…

 しかし、しかしだ……

 こんなのって…ないだろう…?

「これで仲良しグループも俺とお前だけになったか」

 曽我を踏み潰した事に何も罪悪感すら抱かず、蟻を踏み潰した程度にしか

感じてないだろう吾妻の顔は背筋が凍るほど普通だった。


 …いや、ちょっと待て?


 こいつは今なんて言った? 仲良しグループが俺と吾妻だけ……

「何で…」

 どうして?

「答えは簡単だ。林田も俺の駒だった、ただそれだけの事。小学生…

いや、園児ですらよく考えれば分かる事だぞ?」

 …確かに、林田だけ吾妻等とは別口という事はないだろう。

 クソ…何処までも…何処までも俺達の日常を…!!

「しかし、仲良しというのは語弊があるか。そんなのはただの仮初。

獲物を油断させる為の偽の友情ごっこ」

 止めろ…

「曽我も林田も植山も…みんなお前の中にある御馳走目当てで

近づいていたんだ。俺も」

 違う…

「だからお前は何も悲しまなくていいんだ。こいつもお前の命を狙って

いた最低のクズだ」

「違うッ!」

 俺は背中の痛みも忘れ立ち上がり、吾妻の反吐の出るような言葉を

打ち消すように叫んだ。

「曽我は…少なくともお前のような最低のクズとは違う!! お前は

ただの化け物…化け物だ!!」

「ハァ?」

 肩をすくめ、心底呆れた表情で吾妻はため息を吐く。

「もう少し勉強をした方がいいな仲野。お前の言っている事は滅茶苦茶だ。

曽我も植山も林田も俺もルナディクラ、人間以上の存在だ。化け物などと

程度の低い呼び方をしてほしくはないな。これでも傷ついているのだぞ?」

「ふざけろ! お前はただの化け物だ!! いや、それ以下だ!

生きる価値も無い世界にとっての害悪だ!!」

「ハハハ」

 何が面白い!? どうして笑う!? 俺を嘲る資格はお前にはない!!

「いや、結構結構。…しかしだ仲野。その害悪を抱くお前は・・・・・・・・・・

なんなんだ?」

 こいつっ?!

「どうだった、林田の…害悪とやらの味は? 害悪とやらで脱童貞を果たした

気分や如何に? まぁ確かに味わいのある女ではあったな。ただ誰にでも

股を広げるアバズレなのが俺の趣味ではな――――――――」

「吾妻ぁあああああああああああ!!!」

 もう限界だった。何もかも、理屈がどうだろうが関係ない。

 何がどうであろうが、俺はこいつが許せない。例え曽我も俺を

喰いたがっていたとしても……こいつよりマシなのは事実だ!!



「―――素晴らしいわね。確かにこいつ等は生きる価値もない世界の害悪」



「「!!!」」

 その時、俺の目の前に黒い何かが突如として現れると、俺は後ろへ

吹き飛んでいた。腹に痛みを感じ、蹴り飛ばされたのだと理解したのは

黒い靴底を見てからだった。

「ごほっ、げほっ!!」

 クッソ……まだ背中の痛みも残っているというのに…!! 廊下を

大きく滑り転げる俺は喉に酸っぱいものを感じながら咳き込んだ。

「ようやくお出ましか…女」

 吾妻の声は少し遠くから聞こえる。俺と同じく蹴り飛ばされたか距離を

置いたか、女のいる場所から少し離れた所にいた。

「お前…蹴る事ないだろ…!!」

「あら、命の恩人に何を言っているのかしら? あと少し遅ければ

あなたの首は宙に舞っている最中よ? それとも奴の腹の中かしら?」

「くっ…」

 確かにそうだろうよ…俺が奴に…ルナディクラに勝てる訳がない。

しかも相手は今までで一番ヤバいと思える位の強さを秘めた吾妻。

むしろ今まで生かされていた事の方が奇跡に近いだろう。

「さてと…殺しま――――――ッ!!」

「なっ!?」

 女が急に刀を振り回すとよく時代劇とかで刀と刀が打ち合った時に

出るような音が発する。すると廊下の壁、窓、天井に深い切れ目が

走った。これは一体…!?

≪ほう、防ぐか≫

「なっ…!? あれが吾妻…!?」

   

 女と対峙しているのは俺の知っている吾妻ではなかった。衣服は

破れ全身は全てのルナディクラがそうであるように月の輝きを鈍く

放ち、光沢のある体だ。顔には鼻や口、耳はなく、目玉が6つまばらに

浮き出ていて生理的嫌悪を抱くには十分過ぎ、しかし他の奴らと違って

それ以外体の変化はまるで無かった。

 ただ鋭角・・な感じを受ける気がするのは、気のせいだろうか?

≪林田、植山、曽我…あのような醜い者達と違い、俺の姿は美しかろう?≫

「えぇ。あなた達はホントに役に立つわ。自ら明かりの代わりに

なってくれるのだから」

 それは同感、奴のおかげで辺りが見えやすくはなった。まるで

人間のように吾妻は肩をすくめて奇怪な振動がかった声を上げて笑う。

≪確かに我らルナディクラは暗闇の中ではどうしても目立ってしまう。闇に

乗じて…など無理だろうな。…しかし、人間相手にそんな姑息な事は無意味≫

 確かに…それはそうだろう。あの女は別だが、普通の人間…テレビなどで

見る格闘家ですらルナディクラを倒す事は不可能だろう。…住む世界が違う。

≪………とてもつまらなかったよ≫

 不意に吾妻がそんな事を言う。その言葉の意味が分からず首を傾げた

のはあの女も同じだった。

≪あまりにも圧倒的過ぎるのだよ、我々は。人間など喰い物に過ぎない。

その力の差があり過ぎる為に、俺は退屈・・だった…≫

 自慢も甚だしいが、こちらとしては傍迷惑もいい所だ。

 …吾妻が何を言いたいのか良く分からない。今更そんな事はこの場に

いる全員が知っている。いや、問題はそこじゃない。

 気だるそうな物言いがうすら寒いものを感じさせる…

 ――そしてそれは気のせいでも何でもなかった。

≪…ただ狩るだけの日々……差し出された食べ物を喰らう日々……

そんな一方的な関係性に飽き飽きしていたんだ……≫

 思わず一歩後ずさった。六つの目玉しかない顔なのに、そこに

薄ら寒い醜悪な何かを感じずにはいられなかった。

 おかしい…こいつは…狂っている。

≪俺は命を削り合う…そんな闘いがしたいのだ。刺激的な時間を

過ごしたい…相手も俺を喰らう…狩る側の者と…そんな者と戦う夢を

見続けてきた……そして女、貴様が俺の願いを叶えるかの如く舞い

降りた。女神…いや、死神か? 俺は歓喜の中で絶頂した≫

 無意識に腰が砕け、尻餅をついてしまった。

 よく殺人鬼などはイカれた思想の持ち主ばかりだが、こいつは

そんな奴らと同じ…いや、それ以上だ。狂っている。狂った化け物…

 こんな奴と俺は一緒にいたのか。知り過ぎると良くないと言うが、

本当にそれが良く分かる。

 実際に見る狂った化け物はどんな物語のおぞましい存在よりも背筋を

震え上がらせる。歯がカチカチと音を立てる。体全体が震える。止まらない。

「その割には手下を寄越したけれど?」

≪どの程度か見る為だ。植山をやるのならそれはそれで良し。殺される

なら闘う価値もないクズだという事≫

「なるほど。良い趣味ね」

 全く理解出来ない思考。理解出来ない応酬。

 ここは…何処だ? この空間は…何だ?

 狂気が満ち、息苦しささえ好ましいと思わせる程に場が狂っていた。

常人が立ち入っていい場所ではない…ここは、ある種の魔界だ。

≪女、充実した時間を送ろう…そして俺に一瞬でも快感を…危機感を…

身震いするような死線を…味わわせてくれ……俺にとっては人間を

喰らうよりも美味な食事となるだろう……≫

 こいつは…本当に“駄目”だ。

「ねぇ、君」

 それは狂気の世界を斬り裂く一筋の光だったのかもしれない。

…発する声の主があの女でなければだが。

 女は振り返らずに俺に声をかける。…俺にだろう。まさか吾妻に

“君”とか声をかけるとは到底思えない。

 そして黒の女は俺に問いをかけた。

「この屑、斬るわよ?」

「斬れ」

 即答。人間として、当然の答えをしたと断言できる。

 アレはいてはならない。この世に存在してはいけない。

 俺も女も正義の味方でもなんでもない。ただ互いの利害の為に

目の前の害悪を排除しようと決めた、決めている。自分の為に自分を

害する存在を消す。

 聞こえは悪いが、それが生物として当然の考え、いや、本能だ。


 アレは、俺の前から消えなくてはならない…



《続く》


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