黒の女と夜の月 下弦の月


 そしてそれが開始の合図となった。

 ちらと見た横顔は嗤っていたようにも見えた。いや、嗤っていたのだろう。

 月夜は今までも見せた爆発的な突進で吾妻へ迫り斬りかかる。逆手に持った

左手の刀が吾妻の首を狙う。

≪見事な速さだ≫

 暗闇に火花が散る。月夜の刀が大きく弾かれた…首を刎ねるはずの刀を

寸前で遮った腕によって。「へぇ」と動じず呟いた月夜はもう一方の刀で

吾妻の胸を突く――前に吾妻の攻撃が女を襲う。

≪ハァッ!≫

「ぐっ!」

 月夜の突きを躱しながら吾妻は膝を無防備な腹に叩き込む。そしてその場で

一回転し回し蹴りで蹴り飛ばす。信じられない事に月夜は仲野を飛び越えて

床に転げ回った。

 それを見ていた仲野は半ば呆けた表情で月夜を見遣る。その胸中は穏やか

ではないだろう。人間が大きく吹き飛ぶ光景など平和な現代日本で見ることなど

敵わないのだから。

 だがそのような凄まじい攻撃であるにも関わらず月夜はすぐさま起き上がる。

「何を突っ立っているの!」

「!!」

 呆けていた仲野の意識を取り戻そうと叫ぶ月夜。反射的に仲野は廊下の端…

窓とは逆の壁に背を預ける。

≪そうだ、とばっちりを受けたくなかったらそうしていろ≫

 吾妻は仲野にそう言うと月夜に更なる攻撃を仕掛ける。

 床を蹴るとコンクリート製の学校の床に何の冗談か丸い穴が穿たれる。そして

吾妻は走るのではなくその一飛び・・・で月夜へ接近する。

≪ハァッ!!≫

 目にも止まらぬ速さで月夜のいる所まで迫り、轟音と共に吾妻はその姿を現す。

 よく見れば足が床にめり込んでいる。円形の穴が穿たれていた。しかしそこに

相手はいない。月夜はその瞬間、高速、いや、音速のかかと落としを躱しながら

交錯すると同時に吾妻のふくらはぎと腿を斬り裂いていたのだ。更に

振り向き様に吾妻の腹へ両の小太刀を深く刺し込んでいたとなれば、人間を

圧倒的に超越した彼にとっては驚くべき事態だろう。

 そのまま腹の中心から外側へ裂こうとする月夜の目論見は瞬間小太刀を掴んだ

吾妻の手によって阻まれた。

≪ククッ、これだ、この感じィッ!! 俺はこういうのを待っていた!!

素晴らしいぞ女ァ! そうだこれだ! これなのだ!!≫

 流石に力では月夜の上を行くのだろう、体を裂こうにも微動だにしない。しかし

腹を刺しているというのに吾妻はまるで堪えていないといった感じだ。まるで

効いていない。むしろ恍惚とさえしているようにも見える。

≪力を持つ者はその力を相応に使う場が無ければならん、貴様もそう思うだろう?≫

「同意しかねるわね」

≪そうかな? 貴様の目はそうは言っていない、その目は戦いを楽しむ者の目だ!≫

 吾妻は急に後ろへ倒れこむ。その勢いに乗って月夜の腹を蹴飛ばすそれは

柔道の巴投げだ。宙に舞う月夜。人間は空中で姿勢を制御は出来ても飛んだ

方向とは別の方へまた飛ぶ事は絶対に出来ない。空中にある人間は的だ。

巴投げをして空中に飛ばしそれを追撃すればそれはとても防ぎようがない。

…それが出来ればの話だが。

 しかし相手はルナディクラ。それを可能とする力を有している。

 吾妻は仰向けになっている状態から飛び、空中にいる月夜へ追撃を仕掛けた。

 普通ならばここで詰み。だが尋常ならざるは月夜も同じだった。そうなる事が

当然だと言わんばかりに追撃に備えていた二つの小太刀が月夜を三枚に

下ろそうとした吾妻の手を防いだ。地上に降り立つと同時に距離を取る月夜と

吾妻。やや離れた場所でその闘いを見ていた仲野には何がどうなっているのか

知る事は出来ないだろう。人間の目で追える闘いではない。今の攻防も1秒

2秒と経っていないのだから。

「そうね、確かにそうかもしれない」

 呆然としている一般人を余所に超人は問いに答える。≪あっさり認めたな≫と

意外を口にする月の魔獣に月夜はこう付け加えた。

「私はあなた達を殺すのが何よりもの楽しみなのだから!!」

 互いに刃を弾き合い、両者は距離を取る。吾妻の口も鼻も耳もない人間を

捨てた顔にまだらに浮き出た6つの瞳はにやけているように見えた。

≪貴様の胸中など知った事ではないが、俺の望みは叶えてくれそうだ≫

「なっ、傷が…!」

 その場で驚いたのは仲野だけだった。月夜が与えた吾妻の腹や腿の

傷がみるみる塞がっていく。分かりきっていたというように月夜は

溜め息を吐いた。…その表情には微かに苛立ちがあったのは何故か…

≪そうだ、我らを知る貴様には分かっているだろう。力のある…

上位のルナディクラはその存在を滅ぼす程の一撃でなければ

殺す事は叶わん。…それが例え腕を落とそうが首を落とそうが…な≫

 それは月夜も了解の事だった。自分が戦う化け物が如何に化け物じみて

いるのかを。それは比喩でもなんでもなく、事実だということを。

≪出来るのか? 貴様に≫

 振動のかかった人間にとって不快な声色は絶対者として月夜を上から

見ていながら、期待したような色も含まれていた。

 たった数合の斬り合いだが吾妻は理解していた。この黒ずくめの女が

只者では無い事、自分の望みに応え得る力の持ち主なのだと。まだ

この女には引き出しがある…自分を死線へと導く力があると。

 この異常にして異常者は己の死の予感を感じたいのだ。あまりにも

圧倒的な力を持ち得た為に生じた“歪み”。スリルを求める若者のように…

 驕り、慢心、どれとも違う。この超越者は本気でそれを望むのだ。

 権力者の遊びではなく、単純に、純粋に、危険を望む。

 …それは余りにも人外過ぎる考えであり、狂っている。


 そして目の前にいる女も“自分の側”だと吾妻は直感していた。


「出来るわ」

≪クハッ!!≫

 返答は吾妻の直感を裏付ける。十人、いや、百人見ても断言できる程に

吾妻の6つの瞳は淀みなく歪んでいた。

 吾妻の姿がその場から消える。だが本当に消えた訳ではない。仲野の、

常人の目には映らない程の高速移動だ。しかもルナディクラは淡く光る

体だというのにその光の残滓すら見えないというあり得ない動きをしている。

(押しこんでいる…か)

 月夜はこの不可解な現象についても冷静に判断していた。体の光を

無くす事は無理でも最小限に抑える事は可能なのだろうと。化け物には

人間の理屈など通用しない。そう吐き捨てて。

 カッ、とたまに床を蹴る音が聞こえる。すぐに襲いかかってこない所を

見るとからかっているのか様子をみているのか。

「芸の無い…」

 くだらなそうに呟くと月夜はその場で構えた。右手は胸の位置まで上げ

逆手に刀を持った左手は右手の下に。刃は水平、背後からの強襲にも

その場で回転、斬る、もしくはけん制出来るような構えだ。廊下の横幅は

然程広くはない。吾妻が襲いかかるのは正面か背後、そのどちらかしかない。

 ――が、それはあくまで“常人”の考え。良くて背後はあったとしても

わざわざ月夜の脇をすり抜けていく愚を犯す必要はない―――が、それが

“常人”と言わざるを得ない。仲野も背後からは無いと思っていた。

 ――――背後は無い。そう、背後は無いのだ。何故なら――――

≪ギィィッ!?≫

「なっ、う、上っ!?」

 仲野の目には突如月夜の真上から光が現れたように見えただろう。

 その光――吾妻の腕が、月夜の体を貫くはずの腕は虚空を切り床に

突き刺さる。…躱したのだ、月夜は。死角であるはずの頭上、真上からの

奇襲を。まるで最初から分かっていたかのように。

 そして寸でで躱すついでにと言わんばかりに回転しながら両の小太刀で

真横に吾妻の無防備な体を斬り裂く。更にその場でもう一度回転し――

「奥義《満月》ッッ!!」

≪グギャァアアアアアアアアアアアア!!!!!≫

 一閃、光が分断され、凄まじい斬撃に周囲が揺れる。化け物の断末魔が

月下に轟いた。上半身と下半身に分かたれた吾妻は黒い血を撒き散らし

地上にあげられた魚よろしくのたうち回る。

≪ギャ、ギャギャッ、ギャッ…≫

 何故…そんな風にも取れる人外の言葉に月夜はその体を踏みつけると共に

答えた。

「知りたい? …あなたの動きは見えていたのよ」

 それは仲野も息を呑む言葉だった。

「確かに光の残滓すら見えない動きは驚異的でしょうね。常人…いや、人間に

あの動きを捉える事は不可能。では何故? 私はエネルギーを…あの子の

気配を感じ取る事が出来る。それか? 否、そうではない。床を蹴る音?

確かにそれ位しか答えはないわよね。…でもッ」

 吾妻を踏む力が増していき、搾りかすのような声をあげる吾妻に更に

酷な言葉を浴びせる。

「違う、違うのよ。だから単純に・・・見えて・・・いたのよ・・・・ッ!!」

≪グギャァアアアアアアッ!!!!! ア、ア………≫

 不気味な程に歪んだ笑みを浮かべながら月夜は吾妻の頭を踏み潰す。

それと共に淡く光る体は醜く溶けだし黒く汚らしい血へと変貌していく。

 後に残るのは黒い血だまり。光源がなくなり急に周囲が暗くなる。

 何もかもが、終わった…それを告げるかのように。



「地獄に堕ちろ、吾妻……」

 終わった…吾妻は死んだ。あの化け物は……

「ククククク……フッ…ハハハッ…!」

 その化け物をいとも容易く屠った人間は高らかに、狂ったかのように笑う。

 化け物…か。果たして、どっちが化け物なんだか…

 …皆、死んだ。いや、既に死んでいたのか…人間として。

 林田、植山、吾妻…そして曽我。

 現実味がない喪失感。本当にあいつ等はいなくなってしまったのか…?

そんな馬鹿げた考えすら湧き起こる。

 楽しい日々、しかし嘘だった現実。何もかも嘘で塗り固められた友情。

 …もう終わった事だ。そう、何もかも終わっ――――――

 

 

 

――――グチュ―――――

 

 

 

「さて…少しは楽しいデートだっ――――――」

 月明かりしかなく薄らとだが、女が珍しく狼狽した表情で俺を見る。

 そういえば、今何か音がしなかったか? 何か肉を食べる時の音のような…

 それになんか“軽い”。体が軽くなったような感じがする。特に右腕の辺りが…

 まるで右腕が無くなったかのように・・・・・・・・・・・・・・・・………


「あ…れ……?」


 あれ? あれあれあれ?

 無い…ぞ? おかしいな? あるはずの…見慣れたモノがないぞ?


 右腕が…無い? 肩からごっそり、右腕が…腕…みぎうで…うで…が…


「あああああああああああああああああああああああああああああああああ

あああああああああああああああああああああああああああああああああああ

あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 血が…血が、血がぁ!! 噴いてる…流れてる!! 腕が…うでぇええ!!!

 痛い…痛いいたいイタイィイイイイイイイイイ!!!

「…! ……!!」

 ふっ、と視界が暗くなっていく。その視界の中で女が何か言っているようだが

今の俺には聞こえない。耳も駄目になっていく…

 これは…駄目だ。耐えられない。激痛に…耐える事が出来ない。

 そうだ…眠ろう…そうだ、それがいい。目を閉じよう。

 痛くて眠るというのもおかしいが、意識が薄れていくのだから仕方ない…

 これは…気絶なのか? それとも、死ぬ…?

 あぁ…どっちでもいい……死ぬのは嫌だが、この痛みに耐えるのは嫌だ。

 完全に意識が途絶える瞬間、俺の目の前…に光る何かが立っている

ようにも見えた……


 俺が最後に見たのは…天使か悪魔か……



「まさか…自分を分けた…の…?」

 黒い血と化したはずの敵が目の前にいる事が信じられないように動揺する

月夜を見て、6つの瞳が歪んだ。

≪そ、そうだ女…その通りだ。…し、しかし、あれで仕留めたと思っていたが…

貴様と戦うのに…油断は禁物だと思っていたのが…幸いだったな…≫

 生きていた吾妻。その体には寸分の傷も無かった。しかし化け物は酷く

憔悴している。

≪貴様に一撃を…加える前、高速移動…ハァ、ハァ…しながら俺は…

自分を“分けた”。それこそ…貴様に悟られないよう…慎重にな。ハァ…

ハァ…分け身とはいえ…消滅させるとは…貴様は…想像以上に出来る

ようだな…ハァ、ハァ……ハハッ…ハハハッ…!!≫

 苦しく、口が無いのに息を吐きながら楽しそうに嗤う吾妻。

 そう、吾妻は月夜に襲いかかる直前に自分の分身ではなく、自分を

二つに分けたのだ・・・・・・・・。 正にもう一つの自分で、力も半分に落ちるのは道理だった。

 しかしその分け身を消滅させられるのは吾妻にとっては計算外の事

だったらしく、しかもそのダメージが少なからずもう一体の…つまり

ここに立っている吾妻にも伝わっているらしく、それが疲弊している

理由であった。

「くっ…そっ……」

 月夜は狼狽している。それは高速移動が見えていたはずなのに分け身に

気付けなかった事を悔んでいての事だろうか。…それにしては動揺が

過ぎるように目を見開いてもいる。それは吾妻が持っている人間の腕が

原因だろうか。それとも向こうで倒れ、気絶、もしくは…の仲野の安否を

思ってのだろうか? それとも…

≪貴様の一撃、分けた俺にも届く程だった。称賛に値する。誇ってもいい!

人間の身でまさかここまでの―――――――っとと≫

 戯言など聞くつもりはないと言わんばかりに台詞がかった口調の吾妻に

斬りかかる月夜だったが、何故か明らかに精彩を欠いていた。疲弊した

吾妻でも月夜の斬撃を避けられるのだから。何らかの要因があると

思われるが、良く見れば彼女もまた荒い息を吐いている。

≪あれだけの一撃を人間が放ったのだ。しばらくは動けまい! だが

俺は油断はせんぞ。どちらも消耗し、まだ勝負はどう転がるか分からん。

卑怯だとは言うなよ? 殺し合いに待った無しだ≫

「待てッ…!!」

 月夜の叫びは制止にならず、吾妻は持っていた腕…仲野の右腕を

掲げ、その切断面を己の顔に押し付ける。人間の、赤い赤い血が

月の色の化け物の顔面に付着し、その瞬間肉が、骨がひしゃげる

ような鈍い音がすると右腕は6つの瞳に吸いこまれていく。…いや、

喰って・・・いるのだ。

≪むぐっ…んぐっ、んぐっ…おおおっ!? ふふっ、ふはははは!!≫

 さも美味しそうに吾妻は仲野の右腕を咀嚼する。瞳が腕を食べるという

この世のものとは思えない光景を月夜は悔しそうに見ていた。この隙に

攻撃を仕掛ければいいなどと思うのは素人だ。敵は細心の注意を払って

いる。

 …どうせ、もう遅いのだ。そう、何もかも……

≪こ、これ程とはなぁ…!! これ程とはぁ! 仲野ぉ、素晴らしい…

貴様はとっても素晴らしいぃいいいいいいいいいいい!!≫

 廊下が、いや、校舎全てが照らし出される程の光に包まれる。仲野の腕を

喰い終わった吾妻から放たれる光だ。膨大なエネルギーの塊である彼の

腕を喰った為の現象だろうか。やがてその光は収縮し、廊下をやや照らす

だけのものとなった。…いや、そうではない。以前よりも輝きが増して

いるようにも見える。

 そして輝きだけが増したのではない事を月夜はこうなる前から悟っている。

荒く吐き出される息は疲弊の為か、焦りか、それとも…

 目の前の敵は姿こそ変わってはいないが、全くの別物。比べ物にならない

程の存在へと変貌したのだと、泡立つ肌で月夜は感じていた。

≪さて…≫

 吾妻の6つの瞳は肩で息をしている敵へぎょろりと向いた。

≪有名な漫画、アニメに今と似たような展開があるのだが……貴様も

知っていよう?≫

「……私、小学生でそういうの卒業したのよね…」

≪そうか…残念だ。パワーアップを果たした主人公の敵は以前と打って

変わって強気になるのだ。とても器が小さい…と、言いたい所だが

馬鹿に出来ないな。今になって奴の気持ちが理解できるよ……確かに

これは素晴らしい…≫

 仲野の腕を食した事により、吾妻から放たれる迫力は以前の比ではない。

明らかに自分の力を過信しているようで、まるで隙がない。それほどまでに

力の差が開いてしまっている事を月夜は理解してしまった。

 それは何故か?

 何故ならば……今、自分の胸から刃のようなものが突き出していたからだ。

「ぐぶっ…!」

 黒の女の口から血が流れ落ちる。胸からも静かに、だが大量の血が

流れ出る。月夜の目の前には光り輝く吾妻の姿が。そして彼女の背後、

すぐ近くにも吾妻がいた。その腕は月夜の背中に深く差しこまれ

突き破り、胸を貫いていた。

「わ…けみ……?」

≪すまない、少し速過ぎたようだ。そうか、この程度で貴様ほどの達人が

見えないらしいな。…少し期待外れだが、それほどに仲野は素晴らしい

喰い物だったという訳か≫

 そういう問題ではない。ただ音速を超える程の速さで背後に回ったのなら

納得はいかないが、まだ納得は出来る。だが吾妻はいつの間にか分け身を

しつつ、それが背後へ回っていたのだ。月夜の目にも捉えられずに。

 そんな馬鹿げた事を現実のものにしてしまう程に吾妻は別物となって

しまったのだ。仲野の腕を喰った事で。それほどまでに力のある人間を

喰う事はルナディクラの力を倍増させるのだ。ただの美味しい食べ物では

なく、彼らにとってエネルギーを持つ人間とはそういう意味を持つのだ。

「ごっ…は…!!」

 苦悶の表情で痙攣する月夜。背後の吾妻はそのまま、正面の吾妻は

ゆっくりと近寄ってくる。

≪まぁ、自分の力で貴様に勝った訳ではないのが口惜しいな。卑怯者と

罵られるのも甘んじよう。…だが、それは殺し合いをした事の無い

馬鹿者どもの言い分だ。現実はそんなに甘くはない。殺し合いとは

如何にして相手を殺すか、それだけだ。貴様もそう思うだろう?

いや、貴様もそうだったはずだ。だが、俺の方が一歩上手だった≫

「ああああああああああ!!」

 正面の吾妻が月夜の腹部に手を差し込んだ。そして中にある胃や腸を

抉るように掻き乱す。掴んでは潰し、捻り、引きずり出し…およそ

人間に対する仕打ちではない。黒いはずの月夜の衣服が朱に染まっていく…

「あっ……う……ぁ……」

 廊下に響き渡っていた絶叫も既に無く、血まみれの痙攣した人形が

月の色の化け物に挟まれる形で立っていた。立たされていた。

≪…初めてだ。このように充実した時間を過ごしたのは初めてだ。…最後は

俺にとっては不本意な結末となったが、人間にそこまで高望みをする事

自体間違っているのだしな。…しかし、良い殺し合いだった≫

「……こ……ず……」

≪んん?≫

 これだけの致命傷を負わせてまだ喋れるのか。既に闘いを終えた吾妻の

興味はそこにいく。しかし、それも後一言だろう。自分を中々に追い詰めた

人間の最期の一言とはどんなものだろうか? 期待に胸を膨らませる吾妻は

何か言いそうな血まみれの月夜の口元に顔を寄せる。

「ぷっ!」

 それは言葉ではなく、血の唾。それを輝く顔に受けた吾妻は何をされたのか

分からないように静止している。対して月夜は侮蔑し切った表情で血まみれの

口元を三日月のように歪めた。

「ク……ズ……が――――――」

 それ以上は息すら許されなかった。

 あっさりと月夜は上半身と下半身に分かれ、両腕と両脚が斬り落とされ

バラバラの人形と化したのだから―――――――



                 ◆



「あ…ぅ……」

 右腕を落とされ、大量の血が体から無くなり、それでも俺はまだ生きていた。

 気絶していたはずだが、不意に気を取り戻したらしく、瞼だけが体の中で

動いた。目を開き最初に飛び込んできたのはあの女がバラバラにされる光景だった。

 …これで、俺が万に一つも生き残る術は無くなった。…いや、そもそも俺は

もう助からない。分かる。もう俺は死ぬんだと。

 目覚めたのに、薄れゆく視界の中にこちらへ歩み寄る吾妻の姿が。

≪おや? まだ生きているとはな…中々タフな奴だ。…まぁ、死んでもらっては

味が落ちる≫

 …やはり、何だかんだ言って俺を喰うのだ……こいつは俺を。

≪こんな事を言うのはなんだが、貴様の腕を落としてしまったのは失敗だった。

ここまで貴様のエネルギーが高いとは計算外でな。あの女を一蹴してしまった…

全く、いらない誤算だ≫

 ふざけた言い分だ…勝手に俺の腕を落としておいて…自分の非を認めない…

≪まぁいい。もう闘いも終わった、後は貴様を残さず食べてしまうのが

せめてもの礼というものだ。…それに激しい運動の後だからな≫

 人間の状態であれば舌舐めずりでもしたに違いない。…今更の事だが。

 …情けなくて涙が出てくる。

 俺の人生、何だったんだろう? 親に恵まれない、クソつまらない日々を

彩るはずだった友達は全員化け物。

 …涙が出てくる。

 本当に俺の人生は……何だったんだ…何の為に存在したんだ…俺は…

≪お前の人生は俺の為にあったんだ。だから安心して…その…そのぉ……

御馳走を俺にくれぇええええええええええええええええ!!!!≫

 狂喜に満ちた吾妻の口が開くと――――――― その口は真横にずれた・・・・・・・・・・

≪カッ!? キギャッ!?≫

 …俺の頭はおかしくなったのだろう。確実に脳に酸素がいっていない。

 だから見るのだろう、幻を。

 幻…分断されたはずの女の上半身が刀を口に咥えて飛び上り吾妻の頭を

斬り裂いたのだから……

 斬り裂かれた吾妻はその場で倒れ、全身が溶けて黒い血と化した。そして

もう一体の吾妻は状況が読めず、ただうろたえて「それ」を見ていた。

「ったく……酷いわね。女の柔肌に何てことをするのよ。…それに気に入りの

コートや、デニムも台無し…高かったのよ? これ」

≪な、な、な………≫

 吾妻の動揺はそのまま俺も一緒だった。上半身だけの女が仰向けに倒れて

いながら喋っているのだから。

≪何だ貴様……貴様、一体何だ!?≫

 化け物であるはずの吾妻でさえ、その女の変化に戸惑い、怯えてさえいる。

 …当たり前だ。女は…いや、女の上半身に…切断された下半身、腕、脚が

集まってきているからだ。それ自体が意思を持っているかのように女の

上半身へと集まり…結合していく。

「んっ!」

 喘ぎのような声をあげ、女の体がびくんっ、と揺れた。すると女は何事も

無かったかのように起き上がった。吾妻に貫かれた胸や腹の傷もビデオで

逆再生をかけたかのように塞がっていく。

「はぁ……バラバラになるのはあまり好きじゃないわ。いくら 再生・・する

とはいえね。特に服が台無しになるのが頂けないわ。…まぁそれも

全て私が至らないから…か」

 殺したはずの女が当たり前のように生き返った事に流石の吾妻も驚きを

隠せないようで後ずさりする。とても先ほどあの女を殺した者の行動とは

思えない。それほどに異常なのだ、この状況は。

≪答えろ!! 貴様は…貴様は、な―――――――ッ!!?≫

 もう驚く事はないだろう俺達に、女は更なるサプライズをプレゼント

してくれた。…いや、女が元通りになった時に気付いたと言っていいだろう。

吾妻もそうだ、だがそれ・・を認めたくはないから慌て ふためいていたのだ。

 それはそうだ。あんなの人間の出来る事じゃない。…なら何か? そんなの

馬鹿でも分かる事だ。つまり…つまりは……

「フフ…」

 女の瞳は月明かりと吾妻から発せられる光しかない薄暗い廊下の中でよく

映えた。いきなり何故? それは…その答えは、女の瞳が月の…満月のように

光り輝いていたからだ。吾妻の光とは比べ物にならないほど綺麗で、しかし

体全体が委縮してしまうような恐怖を兼ね備えたような、魔力めいたものを

感じずにはいられない…そんな瞳だ。

 そうか、そうだったのか……最初にあの女を見た時感じた畏怖は…

これだったんだ…

 人ならぬ者の…それ以上のものだったから……あそこまで言い知れぬ

畏怖を感じたんだ……

 そう、あの女は…あの女は……

≪ル、ルナディクラ…貴様、同族だったか!?≫




「………同族?」



   


 それは心臓を握り潰す表情だった。

 怒り、恨み、怨嗟、憎しみ、絶望、喜悦、嘲り………

 およそ負の感情が一斉に集まりすり潰され混ぜ合わさり溶けあい一つの物に

なればああなるのだろう。

 ただただ、恐ろしい。ここから逃げ出したい。重傷、いや、致命傷を負った

この体で全力で逃げたい程にあの女が恐ろしい。

 俺に向けられた訳じゃなくてこれなのだ。直接受けた吾妻は一体どのような

心境だろうか? 化け物であれ、あれを物ともしない奴は同等かそれ以上の

化け物だけだ。そして、吾妻があの女以上の存在とはとても思えない。

アレと比べれば吾妻なんて産まれたての可愛い小動物に過ぎない。

「フ…ハハ……ハハハハハハハハハッ!!! ハハハハハハハハッ!!」

 女は嗤う。長らく嗤う。ずっと嗤う。

 それを俺も吾妻もただ竦み上がりながら見つめる。何がそんなにおかしい

のか。それとも別の要因が、あの女にしか理解できない何かで嗤っているのか。

 やがて高らかに嗤うのを止めると女は視線を再び吾妻に向ける。それだけで

吾妻は体を震わせる。既に先程の余裕のあった化け物の姿はなく、蛇に…

いや、大蛇に睨まれたおたまじゃくしのようだった。

「そんなに…私が何なのか気になる? ねぇ?」

≪ヒッ…!!≫

 話しかけられただけでこの怯えよう…やはり吾妻は俺以上のものを

見たのだろう…その姿は奴に対して殺したいほどの怒りを感じていた俺をして

同情を感じさせずにはいられなかった。

「…そんなに見たいのなら………見せてあげるわ」

「あ―――――――――――」

   

 それは一瞬の出来事。

 瞬時に女の長い漆黒の髪が満月のように光り輝くものへと変貌する。光の

粒子と言えばいいのか、そんなものが辺りに降り注ぎとても幻想的な光景が

短い時間だが広がった。

 …しかし、得てして美しいものには棘があるのだ。だがあの女のは棘なんて

生易しいものではない事はこの場の誰もが知っている。

 徐々に長く美しく恐ろしい髪は逆立ち、その姿は圧倒的に美しく、そして

禍々しいものを兼ね備えたこの世のものとは思えない矛盾した恐怖そのもの。

≪あ、あ、あぁぁ……あぁあああ!!≫

『あなたのような下の下のクズでも分かるでしょう? 別に私は“コレ”を

誇らしいとも思わないけれど。…まぁ、あなたのその姿を見て少しは

胸がすっきりしたから、コレも満更でもない…訳がない』

 以前のような口を歪ませながら目は何も嗤っていない表情で女は吐き

捨てた。忌々しいように。吾妻と同じような振動がかった声だが、しかし

それとはまるで違う…質の違う声とでも言おうか?

≪馬鹿な…馬鹿な馬鹿な馬鹿な! し、しかし…《記憶》にある…!!

ルナディクラでありながら人の形を保つルナディクラ…か、かか、《完全体》!

そ、それが、な、何故!! 何故人間を守るような真似をぉおおお!!≫

 吾妻が化け物としては情けなさ過ぎる声をあげる。これなら俺でも

殺せるのではないか? と思える位に、その姿は情けなく哀れだった。

 奴が何を言っているのか訳が分からないが…一つだけ言える事がある。


 吾妻は、終わった。

 今度こそ、完膚なきまでに―――――


≪ハッ、ハハッ、ハヒャヒャヒャハヤアアアアア!! こ、これが完全体!!

これが…ひゃは、はひゃはひゃはひゃはひゃああああああああああああ!!

勝てる訳がない…勝てる訳がなぁああああああああああい!!!≫

 狂ったように…いや、最初から狂っているか。なら精神を完全に崩壊して

いる吾妻はデタラメに腕を振り回す。すると凄まじい風が吹く。その瞬間

女の周囲に何か爪で引っ掻いたような傷痕が開いた。これはさっきの…

『これがあなたの能力ね…真空の爪…道理で綺麗に切断された訳だわ。

もしかしたら再生でなくともくっ付いたんじゃない? 私の腕や脚』

 女はいつの間にか両手に刀を持っていた。それに真空って…そんなの

刀で弾けるものなのか?

≪ひゃ、ひゃひゃひゃひゃ…ひゃああああああああああああ!!≫

『フフ……』

 吾妻の腕が見えない程速く動く。真空の爪とやらであの女を斬り刻む

ようだ。

 …無駄な事を。不意に俺はそう思ってしまった。

 何故? そんなの決まっている。無駄な事を無駄と言って何が悪い?

 もう素人目にも差は明らかだ。いや、そんなものはこの二人の間に

存在しない。

 …もう、これは闘いではない。一方的な――――

『ははははは……』

 女の腕も少しも見えない。何か鉄と鉄をぶつけ合ったような音がして

女の背後に深い爪痕を残す。しかし女には傷一つない。いい加減、これを

続けていれば女の周囲を残して下の階へ穴が開きそうだ。

『鬱陶しい』

≪ギュゥッ!?≫

 一瞬、台風に巻き込まれでもしたのかという位の何かが体を突き抜けて

いった。事実、それは風と言えたのかもしれない。

 女は見えなかった両腕は下ろされている。対して吾妻は両腕を万歳でも

するかのように上げたままの体勢でいた。

 …まさかとは思うが、あの女……ただ思いきり両腕を振り下ろしただけ

なのでは…? ただそれだけであのような衝撃波が…?

≪は、はは、はひゃ………≫

 自分の最大の攻撃すらたかだか動作・・一つで打ち消されてしまった…

 笑うしかない。自分の最大の誇りが貶められ、全くの無駄だという事を

見せられたのだから。

 吾妻は闘いが好きだと言っていた。…そんな奴だからこそ、それはとても

許せなかった事なのだろう。認められなかったのだろう。

 怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。吾妻は女へ襲いかかった。

 その光景はまるで光の中に飛び込んでいく悲しい性をもった羽虫だ。

≪ギュアッ!?≫

 音速で迫った吾妻の顔に当然のように刀を差し込む月の女。だが流石に

刀を刺しただけでは奴を殺せないのだろう。…それとも、手加減をしたのか。

 そして思いついた俺の考えは真実であった。

『実を言うとね、あなたに華を持たせたのよ。私は“人の身での力”だけで

闘っていた。一切、この“忌々しい力”を使わずに。練習台にはなったかしら

…フフフ…ハハハ…ねぇ? 聞かせて? 怯えた? 心底怯えた?

私に怯えた? 私が怖い? 私が憎い? ねぇ、聞かせてよ、ねぇ!?』

≪ひゃああああああああああああああああああああああああああああああ≫

 それはどういう感情での叫びだったのか。俺にはとてもじゃないが

分かりかねた。

 ただ、間近で…顔と顔とがくっ付く位の距離であの女の言葉を受ければ

誰もがああなってしまうのではないだろうか? それが例え人外の化け物で

あろうとも……

『奥義《月断つきたち》ィィィァッ!!!!!!!』

≪アギュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!!≫

「く…あ……ッ!!!」

 俺の腕を喰う前の吾妻を斬り伏せた時とは比べ物にならない程の斬撃、

大上段からの二つの刀の斬り下ろしを至近距離で女は吾妻に浴びせた。本気で

空間が裂けたのかとも思ったほど、事実その斬撃は空間を揺らしたのだろう。

一帯の窓ガラスは全て弾け飛び、壁という壁は女に対して外側にへこみ、

吾妻は真っ二つになり床へ落ちる前に黒い血となり、その血すら斬撃の

衝撃により散り、消滅した。

 …廊下の端に居て良かった。女の斬撃は廊下の真ん中を数十メートル…

あれは一番奥にある部屋の前まで届いているのではないだろうか?

そこまで廊下に斬撃の跡を残していた。斬れているのだ。下手をしたら

下の階…そのまた下の階をも斬り裂いたのかもしれない。

『ククククク…ハハハ…アッハハハハハハハハハハハ!!!!』

 敵を消滅させ、これ以上ない喜びの笑みを浮かべる嗤う“白い女”。

 それは消滅した存在すら嘲り嗤う悪魔の嘲笑だったかもしれない。

 これほど死んだ者を貶める嗤いは無いだろう。消え去った吾妻に

同情してしまう位に思える程。


 いつまでも女の嗤いは止まらない。狂喜の世界。

 ここはこの女の世界だった。自分が異物と思える程に。



 ――――――終わった。何もかも。

 そう、終わったのだ。俺の世界は。これで完全に終わり。


 俺の世界は…この女に塗り潰され、掻き消え、終わった―――――

 

 

《続く》

 
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